論語読みの論語知らず【第57回】「吾試(もち)いられず。故に芸あり」
現下の世情はなかなか大変である。会社経営、会社員、自営業者、フリーランス、専業主婦、学生、フリーター・・・その業種業態、キャリア、財務状況、その他諸々の事情によってストレスの程度も差異が相当あるだろう。目下のところ可能な限り自宅で過ごすことが求められているのは共通で、この過ごし方を巡っては知恵の働かせどころなのかもしれない。だが、そろそろ心のバランスを崩し始めている人が周辺でもみられるようになってきた。
日本赤十字社のHPに「感染症流行期にこころの健康を保つために~隔離や自宅待機により行動が制限されている方々へ~」なる文言が掲載されている。そこには隔離や自宅待機が長引くなかで陥りがちの心理状態をあげている。「自身の体調や仕事や将来について心配になります」「起こりうる最悪な事態を考えてしまい、思考が現実離れしたり、落ち着きが奪われたり、恐怖が強まったりします。」「周囲の人が感染していたらどうしようかと心配になります。」「他の人との交流が制限されているために、孤独や寂しさを感じます。」「自由が制限されることで、怒りや不安を感じます」・・・その上で、「おすすめすること」として、「自分自身の体調を客観的に落ち着いて評価しましょう。」「通常の睡眠・起床のペースを保つように心がけましょう。十分に食事を取り、できるだけ運動するように心がけましょう。達成できるゴールを設定し、それを実行することで、自分自身をコントロール出来ている感覚を得ることができます。」「感情をありのまま受け止めましょう。自分の心の状態や今必要なことは何か、自分自身と対話する時間を持ちましょう。」・・・などの助言をあげられている。
基本的にこれに同意したい。だが、心理状態について述べた「自由が制限されることで、怒りや不安・・」、もちろん理解できるが、この際、自由の性質とベクトルを変えてしまうのもひとつかもしれない。たしかに自宅から積極的に出ることは叶わない、だが自宅で知恵と創意工夫をこらして前向きに生きる自由は担保されているのだ。ルールだから守るという消極受動から、ルールのなかで積極能動に生きる自由を行使すること、自分なりの新たなルールを付け加えることも可能だ。
さて、私個人はこの一カ月いろいろと工夫をしてみた。コロナで影響を受けたビジネス上のダメージを冷静に受け止めつつテレワークが可能な環境を作り上げた。オフィスにいく必要があるときは自転車を使用(マスクをつけての長い坂道などは絶対におりずに登りきることをルールにした。これが結構なトレーニングになる)。10年以上通っているジムが休業になったが、自宅にジムの代替えとなる環境を作った。本格的な重量トレーニングは難しいが、最低限のダンベルなどを備え、チューブや自重を使ったトレーニングを取り入れた。そのために動画などで新たなトレーニング方法を学ぶことになった。7歳のときから始めた空手道。広いスペースにサンドバックが常置されているジムでは、トレーニングパンツとTシャツ姿でひたすらにそれを打ち続ける稽古に偏りがちだった。自宅にさすがにサンドバックは準備できなかったので稽古方法を切り替えた。あえてフォーマルな空手道着に着替え黒帯をしっかりと締めて、一人でも礼を行い、基本稽古に始まりシャドー稽古へ続いて延々と練り、そして礼に終わる。そして長らく封印していたトンファー棒術などの武器術稽古を再開した。これらはスペースが限られていても可能で、新しい稽古法に切り替えたことでこれまで隠れていた弱点が浮かび上がり、武道に思いを致しながら改善に挑む。自身の食糧・食事事情については、東京ではデリバリーなどを頼みの綱とすることはまだ可能だが、この際、料理を学び自炊に切り替えた。なお、技量は大いなる発展途上であると記載しておく。他にも将棋を学び、アマチュア無線の資格取得を目指しての勉強。決して得意ではなかった数学を少しばかり学びなおし、自粛明け以降友人たちと行く約束をしている登山とキャンプに向けて器材整備と知識の学び直し、釣りや狩猟について学ぶ。他にも自室で手前勝手な茶道を愉しむ、古典をもう一度読み直し、そして静かに世界と人を想う。原稿や脚本をとりあえず書く、志ん朝の落語と音楽を聴く、お酒は良いものを少々頂く・・・意外にやることが多い。さて、論語に次のような言葉がある。
「牢曰く、子云(い)えらく、吾試(もち)いられず。故に芸あり、と」(子罕篇9-7)
【現代語訳】
(老先生の弟子の)牢の記録。老先生はこうおっしゃっていた。私は世に用いられなかった。だから、(生きてゆくために)いろいろと技芸が身についたのだと(加地伸行訳)
この牢なる人物のことはよくわかってはいない。門人に近い立場の人であったのだろうとは思うが、この際大して重要ではない。孔子が世に出て積極的に活躍するのは50代になって故にそれ以降の発言だろうが、このセリフを吐いたときの孔子の表情はどうだったのだろう。おそらくは卑屈さなどは微塵もなくどこか恬淡として語ったか、もしかしたら笑顔で語ったのかもしれない。
さて世情はどんどん変わっていく。それに適応して生きていく自由を行使することにしたい。これを自由と思える限りそこには尊厳がある。ふと思い出したのだが、私が子供の頃はまだ黒電話が主流だった。ダイヤルを回すという表現がふつうに使われて、当時、電話番号などは基本的に頭で覚えたもので、携帯メモリーのようなものに当たり前にアウトソーシングするなどの選択肢はなかった。娯楽も限られておりそれぞれの想像力を駆使していろんな遊びをつくりだした。外出自粛が下達された今、これは遵守するが一方で自らの自由として一つルールを加えた。 子供の頃に存在しなかったネットや動画、映画見放題、ゲームなどいろんな娯楽を自宅で消費することができるが、だがあえてそこから「社会的距離」をとって自分が積極能動に想像と創造を可能なかぎり駆使できるものにベクトルを向けることにした(例外は適度につくる)。いまは持久戦ともいう。持久戦にもいろいろな定義があるのだが、いずれせよ、自身の主導(主動)権を渡さないのが戦いの原則のひとつで勝利への道なのだ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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