論語読みの論語知らず【第64回】 「人能く道を弘む」
三国志に出てくる曹操は若いときに「治世の能臣、乱世の奸雄」になると評された。要は、世の中が平和であれば有能な臣下になるが、乱世では悪智恵も使える英雄になるということだ。平和はイコール秩序が保たれていることを意味し、それによって社会に余裕があれば倫理や道徳などの価値観も人々は最大公約数的なものをある程度共有できる。だが、乱世はその反対で秩序が乱れ、社会が動揺すれば倫理も道徳もまた不安定となる。
乱世にはいろいろな人間が世の中に出て来て、我こそはとばかりにそれを鎮める処方箋を提示し行動するがなかなかストレートには進まない。次々と表舞台に登場してくる者たちの多くが、英雄にも奸雄にもなれないうちに次々と退場させられ露と消えていく。ただ、それらが予期せぬ波紋を次々と生じさせては物事を蛇行させて複雑にしていくのだ。そんな乱世も行き着くところまでいけば、人々は次第にシンプルな回答とストーリーを提示してくれ実現してくれる者を待望する。この人こそはと期待を背負ってあらわれた人が英雄なのか奸雄なのかを見極める余裕もなく、よしんば乱世を鎮めることができても、そのあとに来る世の中はもはや元通りでないことに気づくのには少なからず時間がかかり、こんなはずではなかったと思うころにはさらに時間を要する。ただ、社会はその痛みにすら徐々に慣れてまた一つの治世が来る。
歴史を眺めているとそんな捉え方もできるように思う。あまり大げさなことをいうつもりはないが、コロナ禍の現在はあるいは一つの乱世なのかもしれない。そして、この乱世は、政官財だけでなく、芸能、スポーツ界と多岐にわたり色々な人がコロナ禍をめぐる処置対策について言葉を紡ぎ出している。それをポジティブに評すれば、提案、意見、助言、忠告、建言、諫言ともいえる。反対にネガティブに評すれば、ただの誹謗、中傷、罵詈、雑言、讒謗、甘言だったりもする。
色々な人々が様々なことをいうのはなにも現代に限るものではなく三国志時代だってポジもネガも言葉が入り乱れた。ただ、今と昔が違うのは人々の識字率があがりネットが生まれ、そこで生み出されて残されていく言葉の物理的な量が比較にならないくらい増えたことだ。現代はこれらのシャワーを浴びられる時代であり、これが良貨と悪貨どちらになり得るだろうか。先日たまたま芸能界の大御所と呼ばれる立ち位置の人がコメンテーターとしてコロナ禍とその政策について発言を求められていたが、「何が正しいかわからない」と答えていたのが象徴的であった。ご本人の発言の影響力を考えてか、それとも本当に判断しかねていたのかはわからない。ただ、乱世だけども安易に言葉を残すことが出来る時代ではあり、そして玉石混交の情報が入り乱れる時代に、しっかり考えて意味ある言葉を残すことはなかなかしんどい作業なのだろう。
短い文字数でどうするべきだ・・というべき論を言い切ることも必要だが(そして根拠をいわなくていいなら一番安易だが)、正直わからない・・・だが、こうしようというのも一つの態度だとは思う。乱世では完璧な正解は見出せなくて、それがどこか自ずから顕れてくることを期待するのではなく、迷いながらの歩みなかでベターと思われる答えを見つけていくのも一つの在り方だろう。論語に次のような言葉がある。
「子曰く、人能く道を弘む。道 人を弘むに非ず」(衛霊公篇15-29)
【現代語訳】
老先生の教え。人間が(努力して)道徳を実質化してゆくのであって、道徳が(どこかに鎮座していて、それが自然と)人間を高めてゆくわけではない(加地伸行訳)
ところで、コロナ禍によって働き方もずいぶん変わることになった。たとえば、テレワークやリモートワークが必要に迫られて大幅に取り入れられたのはその最たるものだろう。いまのところ効率化と合理化、そしてこれまでの通勤にかかる時間やコストといった負担が軽減されることから評価する声が高い。もちろん、私もその恩恵を受けているし、この流れは否定しないが、所詮は限度がしれていると思っている。
哲学者エマニュエル・カントはこんなことをいっている。
「人間には、集まって社会を形成しようとする傾向がそなわっている。それは社会を形成してこそ、自分が人間であることを、そして自分の自然な素質が発展していくことを感じるからである。ところが人間には反対に、一人になろうとする傾向が、孤立しようとする傾向がある。人間には孤立して、すべてを自分の意のままに処分しようとする非社交的な傾向もあるのであり・・他者に抵抗しようとする傾向・・この抵抗こそが、人間にそなわるすべての力を覚醒させ、怠惰に陥ろうとする傾向を克服させ、名誉欲や支配欲や所有欲などにかられて、仲間のうちでひとかどの地位を獲得するようにさせるのである。人間は仲間にはがまんできないと感じながらも、一方でこの仲間から離れることもできないのである」(世界市民という視点からみた普遍史の理念より)
人間がもつ非合理的で欲得的な部分を見落とすわけにいかない。いやな上司に会わないですむことや、嫌いな同僚と直接口をきかないでも仕事をできるのを喜ばしく思う一方で、それらと直接ぶつかったり、つまらないことで見栄をはったり、格好をつけたり、酒を飲みながら陰口をたたいたり、そうした日々から何かしらの陰なる充足感を得ていたのに気づき懐かしく思う日も遠からず来るように思う。結局どちらかに過度に偏らず中庸とバランスのなかで生きていくことになると思うのだ。蛇足だが、あるコメンテーターが、リモート出演で上半身しか映らないということで、上だけスーツで下はパジャマだと告白して笑いを誘っていた。これはただのアンバランスだと思うのは私だけだろうか。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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