温故知新~今も昔も変わりなく~【第50回】 橋場 弦『民主主義の源流 古代アテネの実験』(講談社学術文庫,2016年)

20代から30代にかけてどれほど香港に降り立ったかは覚えていない。当時、ビジネスパーソンとして大陸へのアクセスに香港をよく使ったものだ。香港と大陸の間で出入境を繰り返すたびに両者に存在する大きな違いを肌身で感じたのを覚えている。爾来、香港を久しく訪れていないから昨今のことはよくわからない。さて、民主活動家としてアクションをおこしてきた周庭さんが逮捕され一度保釈されたニュースは世界を駆け抜けた。「国家安全維持法」に違反した容疑であり、「有罪」とされた場合の終身刑もあり得るとのことだ。
保釈された後で今回の逮捕について彼女は次のコメントを残した。「とても怖かった。もう(外に)出られず、このまま収監されるのではないかと思った」これは素直な心境なのだと思う。同時に次のようにもコメントした。「国際社会と連携する活動には参加できないが、引続き香港の民主主義と自由のために、香港人の一人として闘っていく。これからどんどんつらくなるかもしれない。でも自分の“家”を守るために頑張らないといけないと決心した」
強烈な圧力や恐怖に直面しながらも、信じる道を続行しようとする人がごく稀に歴史には出てくるのだ。ところで、彼女が大切に思う民主主義だが、日本ではいまや空気の如く存在しているこれをどのくらい我々は知っているのだろう。


民主主義といってもその頭に別の言葉がつくことがある。たとえば、教科書に出てくる「議会制民主主義」、そこではこのような説明がされる。「・・・国民の代表として議員を選出し、こうした議員で構成される議会を通じて政治をおこなう・・現代国家では間接民主制を具体化した議会政治(代議政治)が一般的であり・・」(「詳説 政治・経済」山川出版社)。

間違ったことを書いているわけではない。そして、政経の教科書では民主主義の始まりは議会制民主主義からで十分とのことなのだろうが、その淵源たる古代ギリシャの民主政には遡らないのだ。(「倫理」の教科書ではサワリだけ触れてはいる)。「民主」という言葉の意味合いは今のそれと、昔のそれでは大変な違いがあるが、共通しうるエッセンスもあるとは思う。古代ギリシャのアテネでおこなわれた民主政について制度やその実態をわかりやすく書いた本に「民主主義の源流 古代アテネの実験」(橋場弦 講談社学術文庫)を挙げたい。この一冊でアテネの市民たちがどのように民主政と向き合っていたかがある程度見えてくる。


民主政下の古代アテネは決して理想社会ではなかった。王政、貴族政を経て紀元前400~300年代にかけて興隆する民主政の実態と評価は今日に至るも毀誉褒貶が入り混じる。プラトンなどはこの民主政の下で師匠であったソクラテスを処刑されており否定的評価をしているし、アリストテレスも好意的ではない。一方で、最近の研究などではアテネの民主政の制度がこれまで考えられていたよりも精密なシステムがつくりあげられていたことが判明し、よくいわれるような単なる衆愚政治とはいえなかったという評価もあるのだ。

古代アテネの民主政の維持運営は専門家(行政官僚)によるものではなく、アマチュア市民によって行われるアマチュアリズムが原則であった。


「民会はアテネ民主政の最高議決機関である。市民はだれでもこの集会に参加し発言する権利をもち、一人一票の投票権を行使した。在留外人・奴隷・女性には参政権がないが、他方市民権をもつ成年男子であれば、土地所有の有無、財産の多少にかかわらず、民会への出席・発言および投票の権利を平等に与えられていた。・・・民会には定足数規定のようなものがあったのだろうか。前四世紀においては、特別に厳正を要する案件の決議には6000人の定足数が必要とされ、しかもその採決は挙手ではなく無記名秘密投票によって行なわれたことが確認されている。・・・民会の権限は幅広いが、もっとも重要な審議事項は、軍事行動の決定も含む外交問題である。他国に対する宣戦布告、和平・同盟条約の締結、外交使節の派遣、兵士の動員、艦隊の派遣、戦時の財政・・・意外なのは、通常の国家財政や経済・教育をめぐる政策には、民会がほとんどタッチしなかったことだ。財政は評議会にほぼ委ねられていた」(同書より)


この文の最後に出てきた「評議会」は30歳以上の市民から各部族でそれぞれから50人ずつ抽選で選ばれて任期は1年限り、二期連続してはその地位に着くことはできないルールであった。この評議会が行政の最高機関として大きな権限をもち、財政や公共事業などを広く管理することになった。抽選で選ばれた市民に行政を任せるといえば、現代からみて違和感を覚えるだろう。ただ、抽選で選ばれてもなお厳しい「資格審査」(ドキマシア)があった。これによって行政官として民主政を担うにふさわしいか否か調べられる。ただ、それは専門的知識ではなく、本籍と市民権の確認からはじまり、神々をきちんと祭祀しているか、祖先をきちんと供養しているか、両親をきちんと養っているか、兵役の義務をきちんと終えているか、負債はどの程度あるかなど市民として立派であるか否かが問題とされた。そしてこの「資格審査」を無事終えて行政官としてつつがなく任期を過ごした後で、今度は「執務審査」(エウテユナイ)を受けることになった。いうなれば不正をすることなく業績を残したかどうかの審査で、そこでは会計検査を含み、公金横領や収賄などを調べられ告発されると民衆裁判所で裁かれることになった。実のところこれはかなり厳しいものであり、このようであれば政治や行政に関わらない市民として生きるほうが楽と思われそうだが、古代アテネの市民は政治や行政に関わる公的な生活こそが人生の意義として生きたのであった。


さて、このように書けば民主政が厳格に維持運営されたようにも聞こえてくるが、一方でゆるさやいい加減さを感じさせるエピソードもたくさんあるのだ。先に触れた民会なる存在では、参加する市民のなかには民会当日に広場でおしゃべりに夢中になっていつまでも会場に行かないのもたくさんいたようだ。そうした人々を強制的に会場に追い込むために生み出された方法は、警備を担当する兵士たちが二人一組で赤い泥が塗ってあるロープを左右に広がってもち、家畜を追い込むかのように会場に市民を追い込んでいくものだった。赤い泥が服についた市民は罰金を払わされることになるので、この方法は有効であったようだ。また、会場では、民会は長時間に及ぶのでワインやパンなどの持ち込みが許されていた。民会の議事は討論ではなく、発言者が演壇にあがってそれぞれがモノローグによる演説をぶつスタイルで、それは常に喝采と怒号、声援とヤジが混じるものだったという。こうなると現代の議会ともさして変わらないように見えるが、一つ違いがあるのは暴力を行使する「乱闘」にまではならなかったようだ(少なくともそうした史料はない)。市民は言いたいことを言う自由はあった。ただ、それは同時に言ったことを公職に選ばれて実現する責任をいつ背負わされるか分からないなかでの民主主義であり自由だったのだ。古代アテネの民主政と今のそれではあまりに違うが、こうした古いことを知るのもまったく無駄ではないと思うのだ。


さて、冒頭に触れた周庭さんのことだ。彼女が今後どのようになっていくのかはわからない。
真っすぐな思いと強い意思を貫くごく稀な人であり御年は23歳ときいた。その生き方には深い敬意を払うのだが、もし選択肢があるならば、いや、選択肢を掛け合い、巧く引き出すことが出来るならば、一度は「明哲保身」をして「捲土重来」を期すことも一つの道だと思う。そしてそれが可能ならば、民主政の古きをたずねて、新しきを知る学びの時間を十分に持つことも自由の一つなのだと思っている。白黒をつける戦い方もあるし、とりあえず灰色で良しとする戦い方もあるもので、古代アテネから2500年のなかでそんな歩みを知ってからでも遅くはない。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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