論語読みの論語知らず【第65回】 「過ちや、日月の食(みちかけ)の如し」

個人が間違いをおかしてしまった際に、その非をストレートに認めて謝ることを潔いとする文化形態がある。たとえば、その人が社会的になんらかの活躍をしており、間違いを認めれば責任を取らされるとしても、非を認めての謝り方と更生次第では後になって名を一層あげることもある。論語に次のような言葉がある。


「子貢曰く、君子の過ちや、日月の食(みちかけ)の如し。過つや人皆之を見る。更むるや、人皆之を仰ぐ」(子張篇19-21)


【現代語訳】 

子貢のことば。教養人の過ちは、日食や月食の姿のようにはっきりしており、隠したりしない。過てば人々はみな知っている。しかし、すぐ改めるので、人々はみな(侮るどころか)かえって尊敬する(加地伸行訳)


ただ、このような言葉を吐いた子貢という人物は君子であったかもしれないが、同時に能吏でもあった。仮に子貢を君子であったとするならば、君子は間違いもおかすし、ときに二枚舌も使うことになる。「史記」によると子貢は師匠の孔子の祖国である魯が隣国の斉から侵略される危機に直面したとき、外交使節として諸国を駆け回り、二枚舌を使って方々をけしかけてどうにか魯を守り切ったことが記されている。祖国を守るための二枚舌だから肯定されるという考えもあろうが、それも度が過ぎてしまえば、どこか滑稽に思えてしまうことがある。


少し具体的な一例を取り上げたいので中国とベトナムの話をする。現代でも中国とベトナムの関係は色々な緊張を抱えているが、歴史的にもこの両国は衝突を繰り返してきた。ベトナムは10世紀の「唐」末期に独立するまで1000年くらいの間は中国の実質的な支配下にあった。独立後のベトナムは、「宋」、「元」、「明」、「清」の中国の歴代王朝とときに干戈を交える戦を幾度かおこなってきている。「中華」化しようとする中国と、それに抗するベトナムとの戦の多くは、軍事的にはベトナムが勝つことがほとんどであったが、何故か“降伏”して“謝罪”をする型をとるのはベトナムであった。


「史記」の時代から1800年以上の時を隔てた「清」王朝の時代、1788年におきた「ドンダーの戦い」といったベトナム史上で有名なものがある。清を宗主と仰ぐも衰退したベトナム王朝(黎朝・れいちょう)が、新たに勃興してきた勢力に駆逐されて(西山党の反乱)、ベトナムの昭統帝は清の乾隆帝に助けを求めた。これにより清の軍がベトナムへ侵攻してハノイを一時占領したが、新たにベトナム皇帝を名乗る阮恵(グエン・フエ)が清軍に反攻しこれを撃滅し潰走させた戦いだ。この戦いで清軍は少なく見積もって3万人以上の戦死者を出して、遠征軍総指揮官や各級指揮官も失っており軍事的には大敗であった。


さて、この後で何がおきたかであるが、その報を受けた乾隆帝は歴代の皇帝たちに対する弁明のため筆をとりつつも、そもそもベトナムの地が「中華」化する価値を有しないとの結論を導き面子(体面)を守る方向へと舵をきった。一方の軍事的勝利をおさめた阮恵も国内の支配体制が盤石といえないので、対清関係を速やかに安んじる必要に迫られていた。そこで両者の間で成立したのが、体面を重んじる清に対して、実益を確保したいベトナムが形の上で“降伏”を申入れ“謝罪”をする儀式であった。


この儀式を結実していくプロセスをさめた目でみると実のところ滑稽なのだ。ベトナムは降伏するにしてもあまり仰々しいことはさけたい一方で清は真逆であることを望んだ。清側の外交を担当したのは「両広総督」という地位にあった福康安という人物であり、まずは降伏と謝罪のための「上奏文」をベトナムに書かせるところからスタートした。だが、この一通の上奏文を書かせるためにさんざん苦労して同時に多額の賄賂が費やされることになった。その上で、どうにかしてできた上奏文は北京に送られて、これをみた乾隆帝がベトナムに対して今度は「諭」を下した。それは、ベトナムで戦死した清軍指揮官などを弔い、阮恵が自ら北京に来て謝罪すれば、その後、阮恵に「安南国王」というタイトルを与えるといった内容だった。


ただ、ハノイで儀式をすませてしまいたいベトナムと、阮恵を北京にこさせて謝罪させたい清との間のドタバタの交渉経過で何がおきかたといえば、清側の福康安からベトナム皇帝の「替え玉」でも良いから北京に送ることを打診されたとされる。この皇帝の「替え玉」が北京にむかうルートは簡単な水路ではなく陸路を指定されて、ご一行が移動する莫大なコストを清側が負担することになるが、清の人民たちに陸路を進むご一行を沿道から眺めることでベトナム降伏の「事実」を知らしめられることになった。なお、当の乾隆帝がベトナムの「替え玉」の事実を知っていたかどうかはわからないとされる。何にしてもこれにより清は体面を保つことができたと考えたようだ。(もっともベトナムはこの「替え玉」の事実を世界に公開して西欧の知るところとなった)


さて、この清の外交を担った福康安は二枚舌を使った。ベトナムもまた「替え玉」に阮恵の甥を使うなどこちらもまた二枚舌を使ったともいえる。ただこれらの二枚舌によって清軍は撤退し、ベトナムもそれ以上の軍事行動の必要がなくなり、少なくともここに戦争は終わることになったのだ。互いに二枚舌であることを認識しながら、互いに何が大事で何が放棄できるかを見極め、そして互いにどこまで付き合うかを決め行動していくのも外交の裏面の一つなのかもしれない。


ところで、冒頭に出てきた子貢もまた外交使節に任じられて二枚舌を駆使することで魯の危機を救ったと書いた。君子かもしれないけれど二枚舌の子貢が吐いた「君子の過ちや・・」をどう読めばよいだろうか。これは私の勝手な読み方になるが、「過ちは日月の食(みちかけ)の如し」とは、「君子」には過ちとわかっていても実行しなければならない時がある・・・という開き直りの含意と、その過ちもまた結果次第でプラスに評価される移ろいやすいものだとの思いがチラチラみえてくる。論語の多くは、子曰く、つまりは孔子曰くで始まるが、ところどころに弟子たちの言が含まれている。特に子貢のものは独特のくさみを感じてしまうのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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