温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第51回】 トマス・アクィナス『神学大全』(講談社学術文庫,2019年)

とある編集者から聞いた話だが、日本史だと戦国時代や江戸幕末を扱った本が割と人気がありよく売れるが、中世あたりとなるとなかなかハードルが高いとのことだった。実際、大河ドラマなどの題材はこれらの時代が選ばれることが多くそれは映像でも同じようだ。戦国や幕末に比べて中世がどんな時代であったかイメージしにくいことなどが不人気を手伝っているのだろう。ところで日本の中世ではなく西欧の中世となればどうだろう。それは日本からみるととてもイメージしにくく、そしてもっと不人気な時代かもしれない。


中世カトリック世界という言い方もあるが、そのくらいにキリスト教がつよい時代であった。人々の社会生活はキリスト教とその信仰をベースにして成立しており、政治などもそれを無視しては存立することはなく、ローマ教皇の「教皇至上権」などに代表される圧倒的な権威と権力を前にしては、諸侯などは常にその顔色を窺いながら生きるしかなかった。一度ローマ教皇から「破門」を言い渡された諸侯は、その配下の貴族や騎士たちが諸侯を途端に見限り離散してしまうのが普通で、文字通り「裸の王様」になるのがいやならばローマ教皇に逆らわずにうまくやっていくしかなかった。史実のなかには破門を受けた「神聖ローマ皇帝」が雪の中に何日も立ち続けてローマ教皇に「ご寛恕」を願った例などもあったりする。


この中世なる時代は市井に生きる人々にとってもキリスト教が一強であり、教会の外には救いはなく、教会が授けるサクラメント(洗礼などの儀式)によってのみ救われると信じさせられ、その上で聖書などは積極的に読ませることはしなかった。それでも教会が倫理的にも道義的にも一定以上ならばひとつの在り方なのかもしれないが、「司祭畜妾」「聖職売買」といった言葉があるように色々と問題を起こしてもいたのも事実だ。


キリスト教一強の文化風土・知的風土のなかで、西欧では中世の何世紀にもわたって古典教養の代名詞的存在ともいえるプラトンやアリストテレスなどはほとんど忘れ去られていた。そんな中世が変わり始めたのは、十字軍を折にしてプラトンやアリストテレスが中東から再輸入されたあたりからだ。この時代の知性の巨人としてトマス・アクィナス(1225~74)という神学者・哲学者がいる。このトマスが書き残してくれた本に「神学大全」がある(日本語版だと全部で45冊にもなる大部ゆえに、この拙稿ではそのエッセンス要約版ともいえるトマス・アクィナス「神学大全」稲垣良典(講談社学術文庫)を写真で紹介させてもらった)。トマスはこの作品を初学者向けに書いたとしているが、現代では神学者かこの時代を専門にする哲学者くらいしか全部を通読する人はまずいないだろう。だがそのエッセンスにふれていくとトマス・アクィナスという人の知的誠実さが浮かび上がってくるように感じるのだ。


このトマス以前の中世が「考えるな!信じろ!」の世界だとすれば、トマスは「考えろ!信じろ!」の人だ(ちなみブルース・リーは「考えるな!感じろ!」)。アリストテレスなどが再輸入されたことで、理性の力でものを考えることに再びスポットが当たったが、これを皆が歓迎したわけではなく、むしろキリスト教の立場からそれらを危険視して積極的排除に動いた者たちもいた。だが、トマスはこの理性は十分に活用しえるもので、信仰を補うのに一層に役に立つはずだと信じて積極的導入に踏み切った。いうなれば、哲学を神学の世界に取り込んでいくというスタンスでありこれは画期的でもあった。ただ、そうはいっても哲学と神学はそのアプローチや立ち位置が異なるもので、前者は理性の力でもって考え抜き森羅万象を究明していくものであるとすれば、後者は信仰が前提にありその上で聖書をはじめ教え、教義、ドクマを究明していくものであった。それまでは双方が社会的にも物理的にもすみ分けられていたものを、両立していくのだからその手法には少なからずハレーションはおきた。


ただ、理性を行使するといっても、トマスは「神が存在するということの認識が本性的にわれわれに植えつけられているのは・・」(「神学大全」第一部第二問第一項)という前提で物を書き始めている。したがって、この前提にそもそも難ありとしてしまえば、これ以上読み進める価値なしとの判断にもなりがちで、事実、中世的独断としてレッテルを貼られておわることも多いようだ。ただ、私としてはこのトマスの考え方(思考過程)にもう少し付き合ってもよいのではないかと思う。トマスは「神が存在するということは五つの道によって証明されることができる」という言葉でスタートさせて議論が延々と続くが、その最後の終わり方が「それゆえに神は存在する」「このように神が存在することが証明された」という記述スタイルはとっていない。実のところ書かれているのは「これが万人が神と理解しているものである」「これをわれわれは神と呼ぶ」「これを万人は神と名づけている」といったかなり控えめな表現なのだ。こうした書き方はいわゆる何かを決定的に論証して証明しようとする態度とは一線を隔すものなのだ。では、トマスはなぜこんなことを延々と書き連ねたのだろうとも感ずるが、理性を使いそして神を考えることが人間の幸福と信じていたからのようだ。先に引用した「神が存在するということの認識が本性的にわれわれに植え付けられているのは・・」のあとは「・・神が人間の(本性的に欲求する)幸福であるというかぎりにおいてである」としている。トマスという人は理性と信仰のバランスのとれた人であったと思うのだ。


これ以上は細部に入らない。こうした理性と信仰の両刀使いに対して「矛盾」を論理や言葉のうえで見出すことは難しいことではない。ただ、それでも「考えるな!信じろ!」よりは、「考えろ!信じろ!」のほうが良い気がするのだ。もっとも、現代には「考えろ!信じるな!」の人たちも多くいるし、これらを程度によっては懐疑主義者や合理主義者といった言葉でくくることもできるかもしれない。「考えるな!信じろ!」「考えろ!信じろ!」「考えろ!信じるな!」は三者三様、われわれはその立場も互いに分からないうちに、言葉だけをツールに渡りあうのはとかく大変なことだと思う。なおこれら三者に加えて蛇足だが、「考えるな!信じるな!」となれば、もはやその人はただの怠惰と虚無へと陥るだけだ。そこへ導くトラップも現代世界にはたくさん仕掛けられている気もするのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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