論語読みの論語知らず【第69回】 「道を謀りて、食を謀らず」

会食という言葉から暫く遠ざかっていたが、また身近なものになりつつある。無論、ご時世ゆえに適度適切な配慮はしているつもりだ。会食をしながら懇談をすることについて私は嫌いではない。寧ろこれを大いに好むことに改めて気づいた。その一つの理由は20代後半から30代の終わりまで10年ほど完全に断っていた酒を嗜むことを再開したからもある。


マイナーな中国の古典に「世本」(せほん)というものがある。司馬遷が「史記」を書き上げるときに参考にしたともいわれるが、その中では中国ではじめて酒をつくったのは儀狄(ぎてき)という人物であったとされる。禹王(うおう)の臣下であり儀狄は酒をつくってすぐに禹王に献上した。禹王はそれを好み嗜むことを覚えたが、しばらくすると儀狄を近づけなくなった。そして禹王は酒を断ち、そして酒が祟っていつの日か亡国の憂き目にあうものが出てくるだろうと言葉を残したとされる。


メジャーな中国の古典「書経」には酒について文王の言葉として次のようなものが記録されている「時の定めなく酒を飲むようなことがあってはならぬ。諸国では酒を飲むのは祭礼のときだけとし、・・・酔いしれることがないようにせねばならぬ・・」(「周書第六」)。酒が元となり前王朝の殷は乱れ徳を失ったとし、酒を飲むルールを守れないものは処刑にするとまでいっている。遠い過去のお話だが脳裡のどこかに残っているので、私自身は酒を再開した今も、多量を飲むことはなく、飲まれることもなく、良い酒を適量飲むことを基本としている(一人酒はほとんどやらない)


もっとも酒が無くても基本的に会食しながら懇談することが好きなのだ。一口に会食といっても「仕事上」「お付き合い」「商用」から「プライベート」「仲間内」までいろいろな分類がある。世間一般的には前者には消極的、後者には積極的という人が多いのかもしれない。「今日は付き合いで会食だから遅くなる」というわりと使われるセリフにはどこかネガティブなニュアンスが漂う。ただ、私自身は実のところあまりこうした分類は意識も区別もほとんどしていない。行き掛かり上まったくかけ離れた異業種をいくつか仕事として持つことになり、それぞれに生まれたご縁、古くからの友人知人などいろいろな付き合いがあり、そのどれも基本的に愉しく懇談させてもらっている。もちろん、大切にしなくてはいけないクライアンとの会食では多少なりとも気遣いや礼儀は担保するがそれでも基本は楽しく懇談をしている。


それでは一体何を話しているのだろうとふと思い返してみた。結論からいえば「仕事上」の会食であっても雑談とビジネスの話の割合は9:1くらいかと思っている。その雑談の内容はいろいろな領域へと飛ぶのだが、自然と相手の仕事から離れ、かつ相手が関心を持つ知的領域へと集束していくことが多い。意図的に話を合わせるなど小賢しいことはしてないつもりだが話は盛り上がっていく。私が話をしていることは基本すべて独学なので何かを専門的に知っているとは思ってない。学生・会社員時代に「付き合い」が悪いと言われながら隠れて乱読多読をしてきたことがベースになっているのだが、所詮は博覧強記などではないからその多くを忘れてしまってもいる。それでも話をしていうちに自然となんとなく思い出してきて座談は深まっていくことが多いようだ。


自分が知識のないフィールドや仕事については聞き役と質問役に回るし、これが実に大変学びとなる。ただ、何故この人がそれらに興味を持ち、そしてその人の生き方にどう反映されているかについて関心があるから、徐々に対話は深まりその人の価値観が伝わってくるものとなる。まったくの門外漢、私にとって例えば料理人や職人などの領域では聞き役を努める当初はどこか茫洋たる大海を泳ぐような感じで(多分私自身かなりトンチンカンな質問もしていると思う)、それでも徐々にその領域がその人の生き方に直結してくる糸口が見えてくると面白くなる。そのあたりから俄然と懇談は盛り上がることが多い。


とどのつまり「仕事上」といったところから始まり、普通であれば「仕事上」の成功を目的とする会食も、いつしか目前の会話を愉しむことが目的となっている。そして、その結果は自然に成るといったことが多いように思うのだ。まあ、こういうやり方が良いのかどうかは知らないが、私は是で良いと思っている。そういった意味では商売っ気はないし、目の前の会話を愉しむことに人事をつくして、天命を待てばよいのだと思っている。論語の次の言葉が妙に気に入っている。


「子曰く、君子は道を謀りて、食を謀らず。耕せど、俀(たい) 其の中に在るあり。学べば、禄其の中に在るあり。君子は道を憂え、貧を憂えず」(衛霊公篇15-32)


【現代語訳】
老先生の教え。教養人は心のありかた(道)を追求するのであって、食べてゆくことを追求するのではない。耕作しても(凶作となれば)食べてゆくことができない(飢餓)こともある。学問をして、食べてゆくことができることもある。教養人は、心のありかたの不安定を憂えるが、食べてゆくことの不安定を憂えたりしないのだ


***


筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

~ 誠実に対話を行い 真剣に戦略を考え 目的の達成へ繋ぐ ~ We are committed to … Frame the scheme by a "back and forth" dialogue Invite participants in the strategic timing Advance the objective for your further success

0コメント

  • 1000 / 1000