温故知新~今も昔も変わりなく~【第55回】 E・H・カー『危機の二十年』(岩波文庫,2011年)

手元にある文庫版を開くとおそらく19歳のときに読んでいたようだ。E・H・カー(1892~1982)の「危機の二十年」は当時難しく感じながらも一生懸命に読んだ記憶がある。この本は国際政治学を学ぶ上での名著として一般的には位置付けられており、久しぶりに書棚から取り出してパラパラと読み返してみた。当然そうであるべきだが、かつてのような難しさは感じないし、批判的にも感動的にもどちらの感覚も有しながら読み進めた。


以前、この小論のなかでカーの「歴史とは何か」を取り上げたが、私は先に「危機の二十年」を読み、次に「歴史とは何か」を読んだようだ。カーはケンブリッジ大学を卒業後、イギリス外務省で勤務を経てアカデミズムに転じた。この人自身は物事を徹底的に因果関係で考え抜き歴史を捉えた人だといえる。カーの歴史家としての基本的なスタンスは、どんな歴史家もその生きている時代の特質に何かしら影響を受けており、そこから超越も逃亡もできないなかで事実を選び歴史を解釈するものだという。どれほど事実と客観に徹しようとしても、ある事実を歴史の1ページに刻むことを選んだ時点で、それを「歴史的事実」として残すに値すると判断している。そこにはすでに自分なりの解釈が介在して事実を作り上げ、その事実からまた解釈が生ずるという不断の過程に巻き込まれているとする。


カーはこのことを悲観的に捉えておらずどこか淡々と述べているのだ。また、カーは常識的な思考ともいえる因果関係を超越して捉えなければならない「神の摂理」「世界精神」(ヘーゲルの哲学用語)「膨張の天命」(1845年頃からアメリカで盛んに用いられた、合衆国は南半球を支配する使命を持つという領土拡張政策を合理化する言葉)など、ある物事のコースを導くという抽象観念を信じていないと明言する。(「歴史とは何か」より) カーのこのようなスタンスに言及したのは、彼自身が「歴史を研究する前に(何かの歴史の本を読む前に)、歴史家(その著者)を研究して下さい」といっておりそれに倣ってみた。


さて今日読まれる「危機の二十年」は1945年に書かれた第二版であり、そこそこ年月が過ぎてはいるがやはり面白い。その内容を一言でいえば歴史は理想主義と現実主義が交代しながらに営まれているという論旨だ。これだけだと何も言ってないのと等しいからもう少しだけ踏み込む。カーはこの本のなかで、ユートピアニズム(理想主義)とリアリズム(現実主義)という二つの区分けをメインに取り上げ、その二つを様々な用語や言葉に置き換え敷衍していく。たとえば、自由意志と決定論、理論と実際、知識人と官僚、左派と右派、倫理と政治などである。


「ユートピアとリアリティとの対立は、いくつかの面で「自由意志」と「決定論」との対立としてみることができる。ユートピアンは、どうしても主意主義の考え方をとることになり、現実を徹底して否定することになりがちで、目前の実在に代えて自らの描くユートピアを意志のはたらきでうち建てることが可能であると信じている。リアリストの方は、あらかじめ決定されていて自分に変革する力のない現実の展開過程について、それを分析対象とする。・・」(「危機の二十年」第2章)


そして理想主義、ユートピアニズムとは何であり、どのように生まれて、いかなる思想が基盤となったかなどの深い考察に入っていく。そこらで引き合いに出されるのは倫理の教科書に出てきて「最大多数の最大幸福」で有名なベンサムやその門下だったジェイムズ・ミルなどだ。これらが世論は間違わないとの考え方のベースを提供した一つだという。


「理性をそなえた人にはすべて、論証を比較考量して、その優れたものに導かれ決意するという習性がある・・いくらか惑わされる人も出ようが、最大多数の人びとが正しいと判断し、ともかく最も強い論証性のゆえに最も大きく人の心に受け止められる道徳的確実性がそこには存する」(ジェイムズ・ミル「新聞の自由」より)


カーはこれらの思想家を否定はしないが、18、19世紀のこれら理性主義がやがて国の枠組みを超えて、第一次世界大戦後の1920~30年代には国際政治という特殊な分野に持ち込まれてユートピア的発想の礎石になったとする。これが国際連盟などのあり方へと影響していくことになり、第一回の連名総会ではイギリス代表のセシル卿は次のように述べた。


「まことに、国際連盟の用いうる最も有力な武器は、経済的なそれではなく、軍事的なそれでもない。また、そのほかいかなる物質的な力を持もつ武器でもさらさらないのが真実である。われわれが有する最も強力な武器はまさに、世論という武器である」(「危機の二十年」第三章)


こうした思想が1930年代には挫折を迎えて、人々が正しく理性を働かせれば国際政治レベルでもそれは影響し正しく反映されて、国際的楽園への道が開けるなどの思いが真実でないと知らされたとする。カー自身はリアリストである。そして今度はその立ち位置から理想主義に対する現実主義からの批判アプローチを展開する。ここではカーの思想といったものに対する態度が明確になる。


「思想は、思考する人をとりまく環境および彼のもつ利害に相対的なものであるだけではない。思想は思考者のめざす目的の達成に向けられるという意味で、それはまた実用的な性質をもつ。機知に富んだある論者が言っているように、リアリストにとって、真実とは、「まとまりのない経験を、特定の目的のためと当面の時世とに実用的に適合させて感受されたものにほかならない」(同第5章)


リアリストたるカーではあるがそれでも無条件にリアリズムを礼賛するわけではなく、その限界もしっかりと触れており、リアリズムは結局のところ安住の地にはならないと喝破もしている。


「首尾一貫徹底してリアリストであることは不可能であるというのが、政治学の最も確実で最も興味のある教訓の一つである。一貫したリアリズムは、およそ実質的な政治思考の本質的な構成要素であると思われる四つの事柄を考慮に入れていないのである。限定された目標、心情的な訴え、道徳的判断の権利、そして、行為のための根拠、の四者である。」(同第6章)


確かにリアリズムに徹して思想を相対的なものとして扱えば、結局のところ是非や正邪の判断が難しくなる。そうなると人間はそもそも何をなすべきだ、何をなしていこうという決断と行動をおこしていくのも難しくなるのだ。カーはこうした点をどこまでも冷静に捉えながら、理想と現実の双方の特質を捉えつつ展開を続けていくのだ。


カーと紅茶でも飲みながらケンブリッジ大学のキャンパスで対談することができたならばと、ふと妄想してみた。ストレートに聞いてみたい一つのことは、因果関係を超越するような思想、先に出した「神の摂理」「世界精神」「膨張の天命」といったものを何故信じないと決めたかの理由なのだ。信じないことは構わないのだが、言い換えれば、信じないと決めたことを因果関係でどこまで言葉でもってさかのぼり開示してもらえるかに関心がある。(実現しないが対談に応じてくれたならば少なくともカーはそれを因果関係で説明する義務はあると思う) 「危機の二十年」を読めばカー自身は哲学に対する知識と教養が充溢していることはわかる。ただ、それは知っているのであって、信じているのではないし、そしてこの両者の差異はかなり大切な気がするのだ。


このことにカーは同意しないかもしれないし、紅茶がすっかりと冷めてしまうくらいの時間を議論しても平行線をたどる可能性が高い(これはなんとなく私も経験則でわかっている)。さて、知っていても信じることができない者は、現実主義からのアプローチは出来ても、理想主義からのアプローチについては結局どこか無理があると思うのだ。もしかすると「危機の二十年」はリアリズムとユートピアニズムの両者を区分けして論じているが、後者についての論の深度はさほどでもないとも感じている。少なくとも20年前以上に読んだときには気づかなかった点である。ただそれでも「危機の二十年」は名著とは思っている。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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