温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第56回】 顔之推『顔氏家訓』(講談社学術文庫,2018年)

自分の家の子供やそのまた子供たちに生きる上での基本として書き残したものがいつの間にか世間に知られて広く読まれることになってしまった。書いた本人はどのような気持ちでいるかは分からないが、草葉の陰からどこか面映ゆい気持ちでいるのではないだろうか。書物の名は「顔氏家訓」(がんしかくん)といい、書いたのは顔之推(がんしすい)なる人だ。この人は平和の時代ではなく、乱世に次ぐ乱世の中で艱難辛苦を友として生きた人。母国が滅び、異民族に連れ去られ、そこで新たにつくられた王朝に漢民族の官僚としてつとめて人生を終えている。「顔氏家訓」は現代語訳ならばさして読みにくいものではない。日本史でいえば聖徳太子の時代に書かれているものだから古い匂いは立ち込めているが、現代の組織人、社会人が読んでも充分に学ぶところがある。たとえば、新社会人などがカタチだけのマニュアルを読むよりも、これまでとこれからを冷静に考えるために「顔氏家訓」をじっくり読むなども一つの方法だ。


この本は全部で20篇に分かれており、子供にはどのような躾が必要かより始まり、何を学ぶべきか、どのように仕事をするべきか、迷ったときはどうするべきか、何をどこまで望むべきか、自分の死をどう迎えるべきか・・・など多岐にわたる。顔之推はいわゆる読書人(知識人)であり、六経(「詩経」「書経」「易経」「春秋」「礼記」「楽経」)などの学問をすることで身を立てることを信じた人だ。読書論や勉学の仕方などについても言及しているが、いわゆるコチコチな「儒者」などとはアプローチが異なる。学問が本来は聖人の道を扱い、上は自然の摂理を知り、下は人間の諸問題を含み研究するもので、それを世の中に生かしてこそのものと真摯に考えている。顔之推の時代はいたずらに些末な知識ばかりにこだわり、政治や社会の実務に役立てることができない者が多くそれを批判している。


「・・経書は、人を教導する手段である。だから経典の文章に熟練し、あらましの意味がわかっていて、そこから平素の言行の指針が得られるならば、それで人間としては充分である・・」(勉学篇第八)


要は細かな知識ばかり覚えて重箱の隅をつつくことだけで満足するなということだ。なお、この時代の学問は倫理や道徳を起点としているから、現代のようにそれらから切り離された各専門領域を扱う学問とは違う。一方で現代社会に目を転ずれば倫理や道徳は学問として学ぶ場がほとんど用意されていない。その延長なのだろうが新社会人と接しているとそれぞれが社会や組織の中でやりたいことのイメージは有しているが、自分の倫理観や道徳観についてはさほど定まってないように感ずる。組織のなかでやりたいことなどはすぐに壁にぶち当たり変容が迫られるもので、そこでどう身を処してよいか分からなくなりがちだ。そんなとき自身が依って立つ倫理や道徳が一つの支えになりうるが、自分自身でそれを鍛えることを怠れば世間の荒波に呑み込まれてしまうリスクを乱世に生きた顔之推は何度も繰り返し諭す。


このほかにも少し細かな話だが「顔氏家訓」で面白いのは文章の書き方などについて語っているところだ。


「文章を作るのは、駿馬を人が乗りこなすようなものである。馬の気がはやっても、轡(くつわ)や勒(おもがい)で制御すべきである。馬が気を散らして進むべき道を乱し、穴や崖に落ちないようにせよ。 文章の内容は心臓・腎臓のはたらきとみなし、そのリズムは筋肉・骨格のはたらきとみなし、さらにそのテーマは皮膚のはたらきとみなし、その修辞は冠のはたらきとみなすべきである。ところが、当世の文章家は、末に走って本を棄てた結果、おおむね文章にあでやかさがあるが深みがない。だから修辞が内容と競い合って、修辞が勝って内容をおさえこみ、主題が才能と競い合って、主題が煩瑣となり、才能に生彩を欠くようになる。文章が放逸にながれるのものは、まとまりを欠きしまりがつかない。文章がうがちすぎると、つぎはぎが多くなり補足がきかない」(文章篇第九)


今も昔も変わらず組織人は多かれ少なかれ文章で仕事をする。どれほどペーパーレスが進んでも物事を共通理解するための資料や報告書や提案書などペーパーは一定程度残る。組織の性質にもよるが、たとえば新社会人あたりが戸惑うのはこの文章の作成やそのやり取りであることが多い。組織によっては文章の書き方をみっちりと鍛えてくれるところもある。中央官庁あたりに入省した新人官僚などはその徹底的なトレーニングを膨大な実務作業で積み上げていく。法律や政策を扱い文書主義を原則とするのが役所である以上は避けては通れないしできないものは去るだけだ。


他方でそうしたトレーニングをほとんど施さない企業組織もある。かつて上司は若手社員が書いた文章を赤入れして指導する文化があったが、そうしたものが皆無となったと仄聞することも増えた(できるものが少なくなったとも聞く)。メールでのやりとりが主体となり合理と速度が求められていくうちに、文章が最低限のコミュニケーションツールになることもある。ビジネス文章は箇条書きのようなものが良くて、そうでないものはダメだと言い切る年嵩などもまわりでは増えてきた。


こうしたやり方や主義のすべては否定しない。ただ、言葉は5W1Hだけを伝えるものではないのだ。時に文章や言葉でもって相手を説得し、そして実行させていかなくてはならない時がある。そこには顔之推がいうように内容、リズム、テーマ、修辞などのバランスが重要になってくる。だが、組織に入ってからロクに文章を書くトレーニングを受けないままに仕事を重ねて、一定の歳になって今度は人を説得して実行させるような文章を書けといってもできない芸当なのだ。「顔氏家訓」はそんな風にならぬような勉学の仕方、方法、注意点が書いてある。


なお、この本を通読していると顔之推の人となりが自然と浮かび上がってくる。乱世の逆境を官僚として生きるのは、どこか常に薄氷を踏むようなところがあり、それを巧みに生きるためのバランス感覚の良さが伝わってくるのだ。論語や六経を学びながらも仏教を厚く信仰し、俗信や迷信は遠ざける一方で目に見えないことの全ては否定しないという柔軟な態度を有した人だ。子孫たちに向けて常に「分を弁える」ことを諭しつつも、どこか命を投げうってでも果たさなくてはならない任務のことも触れている。結局のところ読み方次第、読み手次第だろうが現代社会を生きる上でもまだ多くの学びを提供してくれる一冊だとは思うのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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