論語読みの論語知らず【第71回】 「之を知る者は、之を好む者に如かず」

『ファンシイダンス』なる映画がある。俳優の本木雅弘さんが演じる「塩野陽平」が実家のお寺を継ぐために700年の伝統を持つ『明軽寺』(永平寺がモデルとのこと)へと1年の修行に向かう物語だ。それまでの陽平は大学に通い友人とバンドを組んで好きな演奏をし、目立ちたがり屋で色事を好む自由気ままだった毎日は卒業を期に一転する。恋人とも離れての明軽寺での修行は世間一般とまったく異なり、そのライフスタイルに戸惑いながらも次第に慣れそして徐々に好むようになっていく。同じ時期に入門した雲水(うんすい・修行僧)たちは皆それぞれが個性的で事情を抱えている。陽平の弟の郁生はお坊さんになってどこかの大寺に婿養子で入れば人生楽勝と夢想。英峻は婚約者がお寺の娘で結婚条件としてお坊さんになることが突き付けられてやむなく修行の身。珍来はしぶしぶ来た気弱で内気な食いしん坊。指導役の先輩僧侶の光輝は下には強く上には弱い、人に厳しく自分に甘い典型で、裏では酒煙草肉食の実践に甲斐甲斐しく、托鉢を誤魔化しての遊び三昧。この映画は89年に公開された娯楽映画でTV放映によってみた記憶がある。エンタメ作品ではあるけども、これをみた寺院関係者の中には怒る人もいれば、笑う人もいたことだろう。ちなみに「明軽寺」は福井県の永平寺がモデルとのことだが、ロケ地は永平寺とは別の北陸や山梨のお寺が使われている。永平寺自体はロケを打診されて断ったのかどうかはまったく知らない。


さて何か自分がほとんど知らない領域・業界・世界がエンタメ映画作品になったとき、それがどのくらいリアリティを持つか、どのくらいフィクションなのか、どの程度脚色されているかなどを知るのは難しいが、一つの参考方法として自分が知っている、関わっている領域・業界・世界などのエンタメ映画を観てみるとよいかもしれない(監督や脚本家にある程度の注意を払いつつ)。たとえば、警察、軍隊、医療、弁護士、ヤクザ、銀行などは映画になりやすいし、それらの領域と自分自身が現実に関わりを持ち(持たない方がよい領域もある)知っているならば、そうしたエンタメ映画をみてみると、現実と映画の距離感のようなものがなんとなく見えてくるだろう。


さて、映画「ファンシィダンス」だが、たまたま配信サービスで久しぶりに笑いながらみてしまった。私自身は出家もしていなければ、お寺の修業道場での経験もない。ただ過去には現実に700年の歴史と伝統を有する大きな寺の「社外取締役」のような役割で経営管理を携わることを依頼されて5年ほど務めた。また、友人知人に僧侶が不思議と多く交流しながら小難しい真面目話、四方山話、裏話などの談義を楽しんでいる。だからある程度の事情はわかっているつもりだ。映画に出てくる様々な悪戯、悪態、懈怠などの中にもまあこれはあるなというものから、さすがこれはただの脚色だな・・などなどのツボを押さえながら鑑賞してしまった。それでもこの映画は主人公の陽平が修行生活の作法を知り、その形式美にどこか美学を見出して雲水の生活がどこかまんざらでもないと感じ始める経過は興味を抱かせるように描いている。
おふざけのシーンに目が行きがちだが、700年の伝統をもつ「明軽寺」の修行システムが人を何かしら変えていく流れもまた見どころなのかもしれない。映画の最後では修行の一つの節目にあたる「法戦式」(ほっせんしき)なるものがテーマになる。本堂に住職を筆頭に上位の僧侶から雲水までが一堂に会して禅問答を大声で戦わせるシーンであり迫力で持って撮っている。現代語とは言い難い禅問答をとにかく一生懸命に暗記し、僧衣をしっかりと着こなし、作法を体に叩き込んで、僧侶たち25人の挑戦を受けてぶつかり合うなかなかの場面だ。この「法戦式」というカタチを無事に通過した雲水は少なくとも何かを感得したと思わせるだろうし、そうした意味ではよくよく編み出された伝統システムだ。この映画を観ていて論語の一文を思い出した


「子曰く、之を知る者は、之を好む者に如かず。之を好む者は、之を楽しむ者に如かず」(蕹也篇6-20)


【現代語訳】 

老先生の教え。道理を理解できただけでは、道理を実践することに及ばない。また、道理の実践ができただけでは、道理の境地にあることに及ばない(加地伸行訳)


どんな領域・業界・世界も表の顔と裏の顔がある。人間組織である以上は表門から通せることばかりでなく、裏門を使わざる得ないことは必ずあるし、それは仏門とて例外ではないだろう。そして組織である以上、そこにいる者たちの志や思いと温度感、加えて能力差がある。それを一緒くたにして修行させ秩序を維持するために規律・作法・権威・文化の伝統システムの強固さが常に問われるが、同時にそうした建前とは反対にシステムに対するお目こぼしと柔軟さもまた必ず必要になるはずだ。コチコチの原理原則主義者だけでは持たないのだ。


これらシステムの「遊び」があることで、何かしらの志を持つ者にその世界の道理を知らしめさせて、それを好むところまでは持っていくことができる。ただ、その道理を本当に楽しむところまでいくのは実のところシステムだけでは難しく、結局はその時々の指導者が人格的力量をどの程度持っているかによるだろう。禅でいえば「老師」という修行を仕上がったとされる御仁の力量次第といってよいと思う。
なお、折角「ファンシイダンス」をみたのだから、そのモデルとされた永平寺が他の番組でどのように取り上げられているのか少しばかり見てみたくなった。検索してみるとNHKがつくった「永平寺 禅の世界」という1時間番組の存在を知った。その内容は一言でいえば映像も音声も構成もとてもキレイにつくられている。ドキュメンタリーとしてみるのか、プロモーションとしてみるのかで評価は多分に変わる代物だ。


ところで、本エッセイは「論語よみの論語知らず」としており、論語の知識と紐づけて何かを書くのを基本としている。いうまでもないが論語の本質を理解し、実践し、その境地にいくための伝統システムやカタチはもはや存在しないに等しい。たとえば、僧侶が僧衣を着るように、儒家を名乗り儒服を着て生活する余地は現代にはないのだ(世の中にそうした人はいるかもしれないが、私個人はそれをしたいとはまったく思わない)。伝統システムやカタチが目に見えては失われているなかで、社会(俗世)にあってその本質を保ち追求するのはなかなか大変であり、それもまた修行の日々だとは思うのだ。考え方次第だがそれは仏門で修行するのに比べて決して劣るものでもないと思う。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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