温故知新~今も昔も変わりなく~【第57回】 筒井紘一『南方録覚書』(講談社学術文庫,2016年)

茶道なる言葉は子供のときに聞いた。そのイメージがもう少し具体的になったのは高校生になって茶道部の活動を眺めたあたりだ。もっともこちらは空手道部で茶道部と共通するのは正座くらいだなと顧みることはなかった。もう少し大人になってから目前でお茶を点てて頂く羽目になりその立ち居振る舞いが美しいとは思った。そのときお茶の頂き方などは一通り習ったのだが、その作法やカタチを守らねばならない意味が結局のところ理解できず身に着くことはなかった。ちなみに当時は体力的にもピークで空手道も型や基本の稽古などは好まずに、ガチンコ組手こそ真剣勝負とばかりに打ち込む日々だったのを覚えている。

時はそれなりに過ぎて「道」がつくものの精神性をより深く見直すようになった。思えば広い意味で「武道」をとらえるようになったあたりに「茶道」とのわずかな縁が生まれたように思う。なお、「わずかな縁」と表記するのには理由がある。今日、私はお茶を点てるし、事務所には立礼卓(りゅうれいじょく)という座ったままにお茶を点てて供することのできるセットやお茶道具一式が備えられている。ただし、誰か特定のお茶の先生に正式に師事したわけではなく、先生方のご好意でかいつまんで教えてもらった一部を勝手に独学独習したのみだ。客人が来ると時々手前勝手に点ててそこで向き合って対談をする。なお、私は茶道にかんして明々白々の門外漢であるがゆえに、トンチンカンな書きようは戯れ言としてご容赦頂きたい。


「南方録」という書物がある。これは堺南宗寺の南坊宗啓によって記録された千利休の茶法秘伝書とされて茶道聖典とまで呼ばれていた時代があったものだ。ただ、その成立過程について疑いありとの声があがり喧々諤々の真贋論争が繰り広げられた。現在では南坊宗啓の直接の手によるものではなく、「南方録」の発見者を称した立花実山(江戸時代のお茶人で福岡藩の家老)の手によってなったとされている。ではこの立花実山がこの「南方録」をテキトーに書いたかといえばまったくそんなことはなく、元禄時代までに残された茶の湯にまつわる記録を深く研究してまとめられたとされる。実際、この本を読んでいくといろいろと面白いのだ。講談社学術文庫から出版されている「利休聞き書き「南方録覚書」」(筒井紘一)などは現代語訳も極めて平易で解説もわりやすい事例を入れてなお深い。


「私があるとき「客と亭主が茶会に臨むときのお互いの心の持ちようは、どのように心がけたらよいのでしょうか」とお聞きしたことがありました。すると利休は、「いかにもお互いの心に叶った茶はよいが、叶おうと迎合する心がみられるのはよくない。茶の湯の奥義に達している客と亭主であったならば、おのずから心地よい状態になるものです。ところが、未熟な人が互いに相手の心に叶おうとばかりすると、一方が茶の湯の本道からはずれたら、ともに誤ってしまうものです。だからこそ、自然と心に叶う茶はよいけれど、叶おうとする意識のみえる茶はよくないのです」と言われました。(客・亭主、互の心もち、いかように得心して) 


お茶にもいろいろな趣向があるが、あまりに度が過ぎてしまえば興ざめさせてしまうとのことだ。「南方録覚書」の解説では利休が旧知の茶人を突然訪れたときの例を引いている。京都へ所用ができた利休が折角だから友人を訪ねようと思いそのことをごく親しいものだけに事前に話していた。その日が来ると楽しみを待ちきれないとばかりに利休は夜もあけきらないうちに友人宅を訪れる。その邸宅はいかにもわび茶人が住んでいる趣向が凝されており掃除なども行き届いていた。利休はそれに感心しながらも訪いを入れると、亭主である友人が自ら出てやってきた。友人は突然利休がやってきたことにたいそう驚いた様子を示した。

茶室に案内された利休がまっていると庭から物音が聞こえてきて、窓から覗いてみると友人は行灯と竹竿を持ってゆずの木の下にいき、その実をいくつか取りまた室内へと消えていった。ゆずを用いてなにかもてなしてくれるのだろうと待っていると、ほどなくしてゆず味噌に仕立てたお膳が運ばれた。利休は上機嫌で酒を入れながら友人と話をしていると、今度は昨日大阪から届いたものですといっておいしそうなかまぼこ(肉餅)を持ってきた。当時、かまぼこは何日も前から準備を要する代物だったので、かまぼこを出す趣向に面して友人は自分が訪ねることを事前に誰かから聞いていたものと利休は合点したのだ。友人の驚いたふりも掃除もゆず取りも全て演出であることを知ると急に興ざめした利休は用事があるといって座も途中で帰ってしまった。このくだりなどを読むと利休という人はなかなか手厳しいとも思えるが、茶を一つの道として思えばこその振舞いなのだろう。


「南方録覚書」のなかで「わび」について書いているくだりがある。このあたりはその解説も含めてとても興味深いのだ。「わび」は本来どこか否定的な意味合いや心もちで使われていたものが、利休が成した茶道がそれを肯定的なものに変えさせたとする。「あはれ」「をかし」「幽玄」「有心」「冷え枯れ」「さび」などと同系列だったものが、「わび」はそれを超えて「無」「空」に近いのではと解説する。ところで、それこそ狭い茶室で「わび」を深く感ずる人間の淵源はなんであろうかと私などは考えてしまう。

「わび」の本質を感ずるためには結局のところその反対に近い感覚を持つこと、あるいは知ることがマストなのかもしれない。茶道はわび茶人と呼ばれた人たちだけの道ではなく、古来、武士や大名、そして天下人まで夢中になった。そこにはいろいろな理由があるだろうが、茶道のなかにある「わび」に惹かれたのは、彼らの多くがその反対に猛々しさ、貪婪さ、貪欲さといったギラギラしたものを多く抱え込んでいたからだとも思うのだ。それらに染まる者たちもそれらただ一色であり続けるのはときに苦しくもなる。そんな葛藤から自然と異質なものを求めての道すがら茶道と出会った者たちもいたことだろう。

そんな御仁はたいていが複雑で面倒なことが多い。そう考えてみると武士、大名、天下人と向き合うお茶人は、客人と亭主の関係に温かみを期待できるものばかりでなく、むしろどこか狭い茶室のなかでの静かな緊張が漂う常在戦場の心もちで向き合うことが多かったとも思うのだ。そのように思いを馳せてみると実のところ先に紹介した一文 「いかにもお互いの心に叶った茶はよいが、叶おうと迎合する心がみられるのはよくない・・」 はまったく違った相貌を見せてくるように感ずる。つまりはそこの一線を下手に誤ってしまえば命を落とすようなそんな客と亭主の関係性の含意が裏には隠れていると思う。そのように勝手に思ってみれば千利休という存在に不思議と親しみがわくもので、利休という人の後半生は常在戦場の心得で歩んだ道だったと思うのだ。お茶人という言葉の響きはどこか現代の語感では柔和さが付きまとうが、その裏にはまた別の物が隠れていたはずだ。もっとも明々白々たる門外漢の私には現代のお茶事情がどうであるかはまったく知る由も術もないのだ。


***


筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

~ 誠実に対話を行い 真剣に戦略を考え 目的の達成へ繋ぐ ~ We are committed to … Frame the scheme by a "back and forth" dialogue Invite participants in the strategic timing Advance the objective for your further success

0コメント

  • 1000 / 1000