論語読みの論語知らず【第72回】 「朝に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」

世界遺産の熊野古道。その昔、たとえば京都から熊野参詣をするためには2週間以上かけて山道をひたすらに歩き目指したとされる。いまでは東京からだと空路で南紀白浜空港まで50分程度で、そこからレンタカーを借りての陸路なら60分で熊野にたどり着く。過去に熊野を訪れてはいたが、その旅路は日帰りの忙しないもので熊野古道などまで散策する機会に恵まれなかった。南紀白浜空港はとても小さな空港で搭乗ゲートも一つのみでそこは相変わらずだった。
10年も前に来たときの空港の記憶なのだが、朝の早い便で到着してレンタカーを借りるまでの少しの間に腹ごしらえとばかりに空港内にある唯一の小さなレストランに入った。するとカウンターに誰もおらず、お客さんも誰もいなかったのだ。もしかして閉店中なのかと思いつつも「すみません」と声をかけると奥から男性スタッフが出てきた。「食事はできますか?」と聞くと、スタッフは「カレーだけなら大丈夫です」との答え。選択肢がないこともときにはあるものだと思いながらカレーを一生懸命に急いで食べた。そんなことを思い出した。今回の旅路は日帰りではなく和歌山で宿泊する機会に預かったのでようやくじっくりと熊野に漂う古のいろいろを味わうことができたのだ。


有名なところでは熊野には3つのお社がある。熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社であり、これら3つをあわせて熊野三山、熊野三所権現などと総称される。それぞれの地に宗教性を帯びた源流をたどると自然崇拝に行き着くのだが、時代が下り平安時代ともなるとお祭りする神を相互に勧請することで自ずから一体化が進みさらには神仏習合も起きてきた。すると本宮の神である家都美御子大神(けつみみこのおおかみ)は阿弥陀如来、新宮の神の熊野速玉大神(くまのはやたまのおおかみ)は薬師如来、那智の神の熊野牟須美神(くまのむすみのかみ)を千手観音と同一視されるようになったのだ。また、平安時代に浄土思想が広がると熊野がその浄土であるともみなされ、さらには様々な神々が祀られたこともあり多くの参詣者を集めて賑やかになった。いうなればなんでもありで、それが日本らしいといえばそれまでだ。異質なものを受け入れて調和し、一定の範囲のなかで同質の如きものとして扱っていく感性はよくいわれることだが奥深い。もっともそれが行き過ぎると同調圧力にも転化されるからいいことばかりともいえない。


さて、熊野は今日でも多くの参詣者や観光客を呼び寄せて受け入れている。今回これまで訪れることのできなかった熊野古道を散策することが叶った。熊野本宮大社から7kmほど離れたところに「発心門王子」なる場所がある。そこまでは古道は古き良き風景を残していた。発心とは「修行への志を決めること」として解釈されるのが普通であり、この発心門王子はその昔たとえば京都から熊野を目指して長い道のりを歩み来た参詣者をその直前で迎えてくれる格好になるのだ。この門に至る古道を登ると小さな鳥居がありそこが「俗世」と「聖域」の境界線とされており、何日もかけてそこを目指した人たちからすればとても感慨深かったことだろう。あたりには小さなお社が控えめに建っているのだが、その横にあまり目立たない石碑がある。字体が少しばかり読みにくいのだが、目を凝らして読むと「入りがたき 御法(みのり)の門は 今日過ぎぬ 今より六つの 道にかえすな」とあった。平安末期から鎌倉にかけて小倉百人一首の選者でもあった歌人・藤原定家の歌だった。この歌の大意は「仏法の門を今くぐったのだから、いまこの瞬間から道を引き返すようなことはしない」となる。


繰り返すが当時は現代のように東京から2時間足らずで到達できる場所ではなかったのだ。長い道のりのなかで徐々に様々な思いが浮かび来て消えを繰り返し、心が徐々に整理され、気持ちが固まってその門に至った時に自然と沸き起こる覚悟の如き思いを藤原定家はストレートに歌ったのだろう。速度や効率を重視する現代ではなかなか保つのが難しい感性と経験にもとづいて創作された歌とも思う。ふとこの歌に被るかのように論語のある一文を思い出した。これまた学校の教科書に載るくらい有名な一文だ。


「子曰く、朝(あした)に道を聞かば、夕べに死すとも可なり」(里仁篇4-8)


本エッセイでは論語の大家である加地伸行先生の現代語訳を引くことが多いが、この一文は現代語訳よりも原文で味わうことでよいとして加地先生の本によっては現代語訳を省いているのだ。この一文をじっくりと味わいそして感じるためにもいたずらに「道」を省かぬように心がけていたい。そんなことをいろいろと思う熊野の旅路であった。なお、南紀白浜空港のメニューがその後改善されたかどうかを確かめることを省いてしまったことが妙に悔やまれる。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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