温故知新~今も昔も変わりなく~【第86回】 野中郁次郎(他)『戦略の本質』(日本経済新聞社,2005年)
たとえば誰かの話を聴くときに、その人が語っている内容をじっくりと聴きポイントの理解に努めるタイプと、話を聴きながらもそこで語られていないことは何であるかと掌握するタイプがあるようだ。組織規模に関係なく、風通しのよいところでは前者のタイプ、そうでないところでは後者のタイプが多いように思う。もちろん、どちらも自然と出来る器用な人もいるだろう。これと同様のことが読書についてもいえるのかもしれない。1984年に出版されて以来ロングセラーとなっている『失敗の本質―日本軍の組織論的研究―』について、ここで書かれていることを踏まえて、そのポイントをまとめて話す人は多くいる。しかし、同書で語られていないことで、語られるべきは何であるかを踏まえ、その問題点を話す人はあまり多くはない。
現在に至るまでのなか、同書の共著者のうち数名と幸運にも直接ご縁を頂くことができ、本が出来るまでの過程や研究会の模様など一部を知った。一冊が出来上がるまでにどれほどの知的労力が投入され、議論は広範にわたったかを知らしめされて改めて驚きもした。このことは「はしがき」にも少し書かれているが、戦史研究の領域に社会科学的方法論を導入する試みが起点となったプロジェクトは度々壁にぶつかっている。研究の過程で実証データが足りていないために諦めたテーマがあり、幾度かの軌道修正を経てようやく日の目をみているのだ。著者の一人は、正直なところこれほど長い間世の中に受け入れられるとは思っていなかった、ともいわれた。
なお、著者たちは『失敗の本質』の刊行に満足することなく、同プロジェクトが終了すると同時に、新たに『戦略の本質』プロジェクトを発足させている。これは『失敗の本質』プロジェクトが、なぜ日本軍は敗北を回避できなかったかといったものを軸に議論しているなかで、そこからベクトルを反転させるかの如く、勝利を導き出す戦略には共通性があるのかというポイントが浮かび上がったことが起点となった。『失敗の本質』の初版が1984年であり、『戦略の本質』が書籍になったのが2005年、このプロジェクトは20年の年月を経た計算になる。その「まえがき」には次のように書かれている。
「・・・日本軍とは逆に「なぜかれらは勝利を獲得できたのか」を明らかにする「戦略の本質」プロジェクトを立ち上げた。どのようなコンセプトで、どの戦いを取り上げるかを議論していく過程で、戦略の本質が最も顕在化するのは逆転現象ではないか、という仮説が浮かび上がってきた。有利な状況では戦略の質は大勢に影響を与えない。しかし、圧倒的に不利な状況で逆転を成し遂げるときに、戦略の本質が最も顕在化する。・・・」(『戦略の本質』)
このような思いで立ち上げたプロジェクトではあったが、戦略や逆転の本質は何かといったことを見出すための術に苦労し、一度長い休眠状態に陥っている。著者たちが暫し知的充電期間に入り、新たに相互作用などに軸を置く戦略論や経営論のアプローチでもってプロジェクトを再起動させたときは、日本がバブル経済を終え迷走していたタイミングであった(『失敗の本質』はバブル経済のピークへの途上で刊行された)。
「日本に・・戦略論がないわけではなかったが、流行している戦略論は分析的な戦略策定に終始していた。分析的な戦略論が行き過ぎた結果、戦略を実践する人間の顔が見えなくなっていた。戦略とは、何かを分析することではない、本質を洞察しそれを実践すること、認識と実践を組織的に綜合することであるはずだ、という確信をわれわれは持つに至った。そこから導き出されたのは、戦略を左右し、逆転を生み出す鍵はリーダーの信念や資質にあるのではないか、という仮説であった。そこからプロジェクトは再開された。・・」(同)
『戦略の本質』では戦史事例として、バトル・オブ・ブリテン、第四次中東戦争、ベトナム戦争などを用いて構成され、どのように逆転がなされたかを軸に展開し、各章の終わりにはアナリシスがある。このあたりの基本構成は『失敗の本質』とあまり変わらないようにみえる。ただし、本書のベクトルは近代以降の合理性、経営学的組織論などに一定の信頼を置いて書かれた『失敗の本質』とは大きく異なるのだ。本書では、相互作用に重きを置く戦略思想などを基盤にしつつ、戦略の本質とは何かを問うていく。そして、そのなかで戦略を司るための人間の知とは何かといった問いに発展し、その淵源を近代以前の合理性へと帰結させていく特徴を持っているのだ。特にその違いは終章に顕れてくる。戦略の本質とは何かを10の命題といった形でまとめている終章の末で、戦略は「賢慮」であるとの命題を掲げ、それへと収斂させていく鍵が政治的判断力の存在だとする。そして、その起源を古代ギリシャのアリストテレスにまで遡り、「ニコマコス倫理学」からのフロネシス(賢慮)の概念を活用するに至っているのだ。
私事だが『失敗の本質』は会社員として勤務していたとき、昼休みに虎ノ門の書店で購入した。その後、それほどの期間を置かずして今度は『戦略の本質』を会社帰りに新橋駅前の書店で購入した。したがって、わりと記憶や印象が新鮮なうちに両者を読むことができ、自由に比較しながら考える機会に預かったことになる。ただ、一見似たような構成を持ちながらも、大きく異なる部分のある両者についてじっくりと考えるのには結構な時間を要した。毎週末をその当時の社員寮から近い赤羽駅周辺の喫茶店に陣取り空のコーヒーカップを前に読書と長考に充てることになった。『戦略の本質』がアリストテレスへと言及していく展開に驚きながらも、本質を洞察するというならば、プラトンまでをそのアプローチとしたならば、さらに違った展開を期待できるのではないかと僭越にも考えた(プラトンとアリストテレスでは倫理の根本に対する態度は異なる。加えて分析の果てに洞察が見出せるかどうかも異なる)。そのためには古典や哲学に馴染みのある人間がプロジェクトチームに必要となるし、当時の私などは積極的に志願したい気持ちだけはあったが、いうまでもなく、著者たちのことを名前で存じ上げるのみで、アクセスする術も知らず、知見も学識も足りず、何よりも社会人になって数年のいわば「一兵卒」に過ぎない立場ではもとより何も望むことはできなかったのだ。
ただ、何をも期待しないままに一人静かに学ぶことを続けて幾年かが過ぎていくなかで、共著者の一人である杉之尾孝生(宜生)氏と邂逅するご縁を頂くことになった。初対面の折、いくつかの質問を重ねたことがきっかけで、共同研究を開始する運びとなる(初の共同研究は『米陸軍戦略大学校テキスト 孫子とクラウゼヴィッツ』(日本経済新聞出版)を共訳出版することだった)。『失敗の本質』『戦略の本質』に出会い、爾来、大いに学ばせてもらってきたが、そろそろ、これらの本に対して、語られていることだけではなく、語られていないこと、新たに語られるべきことを含めて発信をしてもよいとも思っている。その場の一つとして、来年また明治大学リバティアカデミーで講座を持つ予定ではあるが、そこでは更に同書を軸にビジネス・軍事の両方から戦略について柔軟にアプローチするものにしたいとも考えている。これまで出会い培われている縁に感謝しつつ、来年もまたしっかりと頑張りたいと思う大晦日の日なのだ。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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