「孫子」第3回 第1章 兵法書「孫子」について(1)
第1章 兵法書「孫子」について
第1節 「孫子」成立の経緯
古来「孫子」にはいくつかの流れがある。一つは、西暦200年頃に、魏の曹操がそれまでに伝わっていた「孫子兵法」に関する文献を編纂・注釈をして後世へと残したものである。印刷術が未発達な時代においては人の手によって書き写しがなされ、そこから『宋刻武経七書本孫子』『宋本十一家注孫子』『平津舘叢書本孫子』などいくつかが派生した。これらを一括りにして『今文孫子』と呼ぶ。もう一つは、日本の仙台藩の桜田家に秘蔵されていた『桜田迪校正幷訓点古文孫子正文』と呼ばれるものであり、伝来はよくわかっていないが、曹操以前の「孫子兵法」をもとにしているといわれてきた。ただし、考証していくとそうともいえない部分もあるのだが、これは『古文孫子』と呼ばれている。本書では『今文孫子』『古文孫子』を『現行孫子』といった括りでまとめ、いずれもが曹操による編纂を源流としていると考える。
1972年に中国山東省において「孫子兵法」の竹簡が発見された。これを『竹簡孫子』と呼ぶが、調査の結果、紀元前317~134年までの約180年の間に作成されたものと推定されており、『竹簡孫子』は『現行孫子』の源流にあたるものと考えられる。『現行孫子』との内容は非常に似通っているが、他方で約150箇所の違いもあり、その内のいくつかは本質的な相違があるといえる。なお、「孫子」の成立段階については5つにわけて考えている。
第1段階は、紀元前515年頃、孫武自身によって素朴な形で「孫子兵法」が著された。第2段階は紀元前350年頃、孫武の末裔にあたる孫臏によって、『現行孫子』に近い形式となり、戦国時代の末期までに解説などが次々と付け足されていった。この形跡は『竹簡孫子』の中にも確認できる。第3段階、秦・漢の時代を通じて、本論が改変されていき、それに伴い多くの解説書がつくられた。第4段階は、曹操の手によってそれまでの「孫子」が篩にかけられた結果、秦・漢時代にあった「孫子」の本論13篇だけが次の世に伝えられることになった。第5段階は、曹操以降の長期間にわたり行われた研究やその過程で生じた写し違いなどにより『今文孫子』『古文孫子』の形へと至った。ただ、この第5段階のものは、第4段階と本質的にあまり異なるところがない。今日、我々が知ることができるのは第2段階から第5段階のものとなる。なお、山鹿素行などは「孫子」の研究の積み重ねの分だけ、その注釈・解釈などは多く重ねられてきているが、当を得ているものが多いわけではないと戒めている。
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(本文は河野収氏『竹簡孫子入門』の要約を基本とし、読み下し文・訳文はオリジナルから引用しておりますが、それ以外の本文は全て新たに書き換えております。また、必要に応じて加筆修正、構造の組み換え、今日適切と思われる用語への変換を行っております。原著『竹簡孫子入門』のコピーとは異なります。)
筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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