温故知新~今も昔も変わりなく~【第104回】 千早正隆『日本海軍の戦略発想』(プレジデント社,2008年)

敗戦という言葉の重みをダイレクトに知る人が少なくなった日本であるが、敗戦の原因を書物や記録によって知る術は残っている。何がいけなかったのかを探り、どうするべきであったかを考え、これからどうしていくべきかを模索する知的営みは不断で続けられなければならない。何がいけなかったのかを、どの次元から考察するかアプローチは様々であり、それぞれに良書が存在している。中でも組織の「中間管理職」として働き、現場の実態と上層部の様相を感じ、その間に挟まれて苦悶しながら戦い抜いた人が残した記録には、具体論と抽象論とのバランスが程よくとれているものがあり、マネジメントなどの視座から読んでも学びになるものが比較的多い。


欧米の専門家・歴史家の間で回覧された「チハヤ・リポート」なる英文コピーのオリジナルは、千早正隆(元連合艦隊参謀、海軍中佐)によって大東亜戦争の敗戦直後、昭和21~22年に書き上げられた。千早は当初それを本として出版する気持ちなどはなく、海軍中堅士官だった一人として、日本海軍の戦略(作戦、戦術を含む)の何がいけなかったのかを考えて個人で記録するに留めるつもりだった。それが『日本海軍の戦略発想』として出版されたのは昭和57年であり、現在は新版も出ている。艦隊勤務、連合艦隊司令部勤務を経験した中堅士官が、組織への忖度を抜きにした重厚な記録は一定の評価を受け、日本海軍を研究した欧米の歴史家が、その英文コピーから多くを引用している。本書の「まえがき」は次のようにはじまる。


「まず私事にわたることから書き出すことを許されたい。昭和二十年(1945)八月十五日、私は慶応の日吉台にあった連合艦隊司令部で、戦い敗れた日本が連合国の軍門に下るのを迎えた。同司令部における私の職責は、作戦乙参謀であった。・・・日本の降伏により、陸海軍は武装を解除し、解隊し復員しなければならないことになったが、その大部は作戦乙参謀として私の所掌に属することであった。その日から私は、日本軍人としていまだ経験したことのない屈辱的な仕事に忙殺されることになった。しかし、いかに仕事に追われても、私の念頭から一刻も離れないことがあった。それは、海軍軍人として、ことに終盤には海軍の最高司令部の作戦担当の参謀として、敗戦の責任をどのようにしてとるか、ということであった。私は私自身をどう処理するか、重大な選択をしなければならなかった。その翌日の午後、私の妻は末子であった長男を背負って、長女と次女の手を引いて、日吉台の私に面会にきた。焼けつくような暑い日であった。もんぺ姿の彼女は私にどうしてほしいと一言もいわなかったが、そのような幼子がいるのですよ、ということを訴えようとしてきたことは明らかであった。しかし、それは私に生きる決心をさせる決定的な要素ではなかった。・・・私に生き残る最終的な決意をさせたのは、そのときの連合艦隊司令長官小沢治三郎中将の次の言葉だった。「お前達が自決することは許さない。オレも自決しない」・・・その長官の一言は、私自身に生き残る決心をさせた・・・」(まえがきより)


敗戦の責任、生き残ることを決めた責任、二つの重圧を前にして書かれた同書であるが、私がこの本を初めて読んだのは、これを書き上げた当時の千早よりも少し若いくらいの時だった。その時は正直一読した程度で、日本海軍の何がいけなかったのかを深く掘り下げる内容から多くを学びはしたが、これを書き上げることの熱量と苦悶までには思いを致らせることができなかった。その後しばらくしてから改めて読み直したとき、敗戦時に35歳であった参謀がどのように気持ちを保ちながら同書を書き上げたのかを念頭に置きながら読み進めた。文字通り全身全霊を捧げた組織が敗北し、価値観が崩壊と混乱を来すなかで、自らもまた責任ある当事者の一人として深い批判と検証を織りなしていくことは、並みの精神力などではできないことに深く思いを致した。


なお、千早は同書のなかでの意見はあくまでも個人のものであり、読者からの厳しい批判・批難も覚悟して上梓したとしている。昭和57年の発刊時の「まえがき」において、同書のオリジナルは戦争直後に書いたもので、論旨や論述に未熟で幼稚なところがあると断っている。ただ、当時の海軍中堅士官の知能の程度を知ってもらう事例を示すために、大きくは手を加えないままにしたとする(新版では、敗戦時に書き上げた原稿に、時の経過のなかで判明した事実や新たな解説なども加筆しているが、その箇所については明確にわかるように線を引いている)。


同書の構成は「日本海軍の対米戦争に関する判断」「戦争はかく実証した」「総まとめ」の3部構成であり、前半では千早が青年士官時代から主に艦隊勤務を中心に歩み、海軍大学校入校、戦争末期の連合艦隊司令部勤務を経た軍歴を簡潔に述べたあとで、緒論、各論へと入っていく。海軍中佐という「中間管理職」よりもはるか上で決定された戦略についての論評、自らの職掌であった作戦・戦術について欠陥・欠点の指摘を、箇所によっては語調をつよくして論じている。戦中、千早はマクロで俯瞰することが許された立場ではなく、敗戦直後も混乱で情報は限られており、そうしたなかで書かれた内容ではあるが、同書は今日のように大東亜戦争の研究が大きく進んだ時点からみても総じて頷けるものだ。日本海軍が戦略面での過度な楽観主義、作戦面での教条主義、戦術面でのご都合主義などをいかに抱えていたか、冗長な言い回し、無駄な擁護や韜晦などは一切使わずに具体的に書き連ねている。


海軍士官として千早が見聞したものを分析して書いた各論の論考にも興味を惹かれるが、それ以上にダイレクトに経験したことを自らの言動を明らかにして語る部分がやはり味わい深い。それらの一つは千早が参謀としての艦隊勤務を一時離れ、海軍大学校に入校しているときのエピソードだ。海軍大学校は本来、日本海軍の中枢で将来活躍できる士官を養成するところであり、それに選抜された士官(大尉、少佐)は2年間課程で戦略、戦術、戦史、経済、法律などを幅広く学ぶことになっていた。ただ、千早が入校した昭和18年7月はすでに戦況が厳しくなっており、9カ月の速成教育で昭和19年3月に卒業させられている。千早は自らの性格を天邪鬼的だといいつつ、当時の海軍大学校の雰囲気を伝えている。


「われわれ学生が入校して間もなく、米国戦史の講座が始まったときのことであった。エリートで聞こえた担当の教官は、驚くべきことに、米国本土の地勢からその講義を始めたのである。そこには次第に追いつめられていく苦しい戦局と、なんらの関連性もないのである・・」(第一部「日本軍の対米戦争に関する判断」)


「・・・海軍大学校の教育が始まってから間もなく、三カ月後の提出予定で「ギルバート群島の戦略的価値を論ぜよ」という作業問題が出された。出題があったとき、私は出題の教官に対してその場で異議を唱えた。その主旨は、教官がこのような出題をする目的は、われわれ学生にギルバート群島の戦略的価値を認識させようということにあることはよく理解できる。が、問題はギルバート群島への増強が、現実に輸送面、陸軍部隊の現状および防備工事の面から可能であるか、ということである。ソロモン群島および東部ニューギニア方面で日々に苦戦を強いられている現状に鑑みて、どこまで防衛線を下げれば現有国力からみて自信ある防備を整備しうるか、を考究すべきである、と反論した。しかし、教官は自説を固執して一歩も譲らなかった。その三カ月の提出時期がくる前、十一月二十日ギルバート群島のマキン、タラワに敵の上陸が始まった。両島の守備隊は激しく抵抗したが、その必死の抵抗も三日で終わった。ギルバート群島の戦略的価値を論ぜよの作業は、立ち消えとなった・・」(同)


千早が戦況の現実を踏まえて具体論と抽象論を織り交ぜ思考しているのに対して、件の教官はどうであったのだろうか。教官がどのような理由と論理で自説に固執したかまでは言及されておらず詳細はわからないが、教える側の能力に問題があったのは事実のようだ。このように進みゆく教育に反発を覚えた千早は、繰り上げ卒業間際に海軍大学校の教育について自由所見を書くことを求められたときに「反撃」している。海軍大学校の教育は独善的なものに過ぎず、もっと戦争を科学的に捉えて分析しなければならないとし、これを怠ったところに今日の戦況があると直言した。この直言の次の日に学生全部が教場に集められ、ある主任教官が千早を名指しであげて「今次戦争を誹謗し、先輩の態度を非難した。面白くない態度である」と叱責し、それまでの千早の言動を含めて大きな問題となされた。ただ、その場にいた同期の学生のほとんど全員が「われわれも千早の意見と同意見である。ただ、書かなかっただけである。意見を書けといって、大胆に意見を述べた千早を処罰するのはおかしい」と援護し、校長の権限で学校内限りということで沙汰止みとなったという。


このエピソードを素直に読めば、学校内で培われた同期の絆が、人格狭量な教官に対してギャフンといわせた痛撃のようにもみえる。ただ、少し考えてみると、同期のほとんどが海軍大学校の教育がどうしようもないと感じながら、意見表明をストレートにしたのは千早一人であったのは根深い問題であることがわかる。多くがこれではいけないと感じ、その思いを共鳴しながらも現実では発言を控え修正へと繋がるアクションが発起されない。同期達は所見を求められたときに何に忖度したのかを考えるのは大切なことである。若手士官が上層部に遠慮し、組織内の融和と秩序を優先したといえばそれまでだが、自由に意見を表明する権利を自ら放棄し、不必要な忖度をした同期たちに問題はないのだろうか。学校長は学内限りとして本件の処分をしなかったようだが、こうした不必要な忖度自体は学校内のみで起きた特異な事象ではなく、日本海軍全体に少なからず起きていたことなのだ。


組織の中間管理職周辺の士官たちに何が欠落していたのか。千早は同書の最後で「教育に根本の原因があった」と一節を立てて次のように言及している。


「海軍大学校がその教育で犯した最大の誤謬は、戦争をきわめて狭義に解釈し、その教育を戦略と戦術に限定し、学生に対して画一的な教育を実施したことであった。その戦略にしても、戦争全般にわたるものではなくて、限定された地域および期間のものに限り、それ以上に出ることは考えていなかったことに問題があった、といわなければならない。日本海軍は、その建軍の当初から、そのことが正当であったかどうかは別として、政治に関与しないという方針を堅持していた。が、戦争も政治の延長であるという見地からすれば、戦争とは何かという命題について哲学的な思考、思索を加えて、それが軍事面と有機的に機能する面については、十分な考察、研究をして、必要な措置を講じるべきではなかったか、と思われるのである。そのような考察、研究をし、必要な措置をとることと、政治に関与することとは、全く次元が違うことである」(第三部「教育に根本の原因があった」)


何がいけなかったのかという問いは、「哲学的な思考・思索」が結局のところ必要となってくる。何をなすべきかという問いもまた、同様のものが必要となってくる。こうした力を養成することに重きを置かずに将来の将帥たちを輩出し続けた海軍大学校のシステムは残念なものであったと思う。ただ、他方で日本海軍全体が法や命令として「哲学的な思考・思索」を禁ずると下達していたわけではなかった。学問の完全なる自由があったとはいわないが、個人的な努力は少なからず許容されていたはずなのだ。千早の意見表明が炎上したときに、同期がそれを庇ったという表面的な事実よりも、その時に千早が有していて、同期が失っていたものは何であったかを考えるのは重要な問いだ。組織が中間管理職に必要とされる知識を授けていくとき、授けられる側が何を失い始めるのか、それでも個として出来る努力は何か、現代にも通じる根深い問題のようにも思うのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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