温故知新~今も昔も変わりなく~【第105回】 松本俊彦『誰がために医師はいる~クスリとヒトの現代論~』(みすず書房,2021年)

牛乳がない。電池がない。メイク落としがない。ケチャップがない。実生活で少しは困るが絶叫してストレスをアピールするほどのものではない。そこを逆手にとったウーバーイーツのネットCMはある種の諧謔と滑稽さがある。ただ、対価を払えば合理性、効率性、利便性の極みをつくしたサービスを求め、それに慣れ過ぎてしまえば、少しのストレスにも耐えられないような人間になってしまわないものかと時折考えてしまう。


社会や組織がストレスをいかに減らすかといった取り組みは大切だとは思うが、他方で、個人がストレスにどのように向き合っていけるかの努力も必要だろう。ストレス耐性があまりにも脆弱なままに放置しておけば、継続するストレスの前に心を壊して病に至り、そこから回復の途上はなかなか険しいものになる。いちいち数字は出さないが、日本では心の病を発する人の数が毎年かなりに達することは良く知られた事実だ。そのことを反映するかのように、街中の駅近くを歩けば心療内科・メンタルクリニックの看板を多く見かける。


これまで私自身は心療内科を受診したことはない。ただ、仕事の絡みで精神科医、心理カウンセラーなどと接点を持つ機会が多くあった。そのプロセスで心療内科がどのような能力をもち、いかなる治療をしているのかなどの疑問を感じ、友人の精神科医と懇談を重ねるうちに、一冊の本を紹介された。それが、『誰がために医師はいる~クスリとヒトの現代論~』(みすず書房)だった。著者である松本俊彦氏の現在の肩書は、精神科医、国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所薬物依存研究部長であり、字面からは極めてお堅いイメージが浮かび上がる。だが、本書は一人の精神科医が悪戦苦闘しながら心の病に向き合ってきたことを、失敗も隠さずに洗いざらい告白しているエッセイでありとても読み応えがあった。


いわゆる心療内科が向き合う症状には軽重と濃淡がある。こうした表現が許されるならば、松本医師は薬物・アルコール依存などの嗜癖問題(アディクション)といったわりと重いものに真剣に向き合ってきた人だ。ただ、当人は精神科医になった最初からこの問題に向き合うつもりだったわけではなく、医師となってから5年目の人事異動で依存症専門病院の不人気ポストを押し付けられたのがきっかけとなった。


「しかしいまでは、あの人事を境に私のキャリアが本格的に始動したと考えている。もちろん、それは、私自身がこれまで嗜癖問題(アディクション)の専門家として「飯を食って」きたから、というのも理由の一つだが、実は、それだけではない。私の自傷行為や自殺予防に対するアプローチ法もまた、すべてアディクション臨床のなかで育まれたものだからだ。何よりも精神科医の修行としてよかった。なにしろ、依存症患者にアルコールや薬物を嫌いにさせる治療薬など存在しない。そのことが、駆け出しの精神科医に、「薬を処方する以外に何ができるのか」を死に物狂いで考えさせ、援助者としての引き出しを増やすことにつながるからだ」


本書の前半では松本医師自身の生い立ち、学生時代に抱えたトラウマなども率直に告白し、その上で、医師としてどのような道筋を歩んだかを中心に叙述している。青天の霹靂から依存症専門病院に赴任した松本医師は、その最初の半年、薬物依存症患者にどのように向き合ってよいのかわからず模索の日々が続くことになったという。当初は薬物による健康被害のリスクについてお行儀よく説明する「治療法」から始めるも、患者にはあまり効果がなく駆逐された。今度は患者の血液検査で内臓がダメージを受けていることを示してビビらせようとするが、これもまたアルコール依存症患者などに比べるとまっとうな数字しか取れず失敗。


気を取り直して、MRIを撮り「脳の萎縮」が進んでいるのを見せつければ効果があるだろうとトライするが、これまたアルコール依存症患者などに顕著に見られる脳の萎縮が、薬物依存症患者の多くにはその兆候がなく再度の失敗。松本医師は仕方なく「詐欺行為」であると認めつつ、アルツハイマー型認知症患者の萎縮した脳画像をみせて、薬物依存が続くとこうなるといって患者と向き合って誤魔化していたという。そんな日々が破綻したのは、ある時やってきたコワモテの覚せい剤依存症患者と対峙し、内心ではビビりながら、いつもの「治療法」を始めたときだった。


「うるせぇなあ。害の話なんか聞きたくねえよ!俺は自分の身体を使ってもう15年以上も「臨床実習」してんだよ。クスリやりすぎて死んだ仲間だってみてきた。ところが、あんたはシャブについて知っているのは、本で読んだ知識だけじゃねえか。いくらあんたが専門家でも、シャブに関する知識じゃ俺には敵わねえんだよ」

さらに彼は顎をしゃくり上げていった。

「自分よりも知識のねえ医者のところにどうして俺が来てんのかわかるか?わざわざ長い待ち時間に耐えて、金まで払って病院に来る理由がわかるか?」

圧倒された私は、声の震えを必死でごまかしながら、平静を装って質問した。

「それは、な、なぜですか?」

すると、その患者は不意に声と表情をやわらげてこういった。

「それはな・・・クスリのやめ方を教えて欲しいからだよ」


松本医師はこのときがアディクション臨床の出発点だったと告白している。そして、最初の半年間で自信を失い無気力状態になりかけていたが、この後しばらくすると、薬物依存症患者の自助グループのオープン・ミーティングに参加を求められ、それが新たな突破口になったという。未知なるものへの不安から少し躊躇しながらも、松本医師はこの集まりに参加した。そこでは、患者や元患者が互いにコミュニケーションを取りながら問題や心情を吐露して支え合い、そして実際に薬物から離れていく人たちの姿から多くを学ぶことになった。


「・・なるほど、と思った。自助グループとは、自分の過去と未来に出会い、仲間たちと自虐的なユーモアをシェアしながら、薬物のない今日一日を確認し合う場所なのか。そしてその場所は、病院でもお手上げで、「出入禁止令」を出さざるを得なかった依存症者まで受け入れ、彼の薬物使用を止める力を持っている・・・。驚きだった」


行動やカタチの上で薬物から離れさせるためには、心の治療を要することになる。医療者としての限界を知らされつつ、心に向き合うということに改めて気づかされた松本医師は、その後、アディクション臨床に夢中になっていたという。


本書は、松本医師の体験や知見を軸として書かれている。この事実を十分に踏まえた上で、私が本を読み進めていくなかで少なからず驚いたことがある。それは精神科医という職種の人たちが心の病について体系的な知識を持ってはいるが、対処方・治療法については自らで学び体得していく個人戦の要素が強く、自由裁量がかなりあるという事実だった。ただ、自由裁量があるということは、換言すれば冒険やリスクを恐れ、古くからある安易で低コストな選択肢へと流れる向きへとも繋がっていくようだ。松本医師は、アディクション臨床、薬物依存症に真摯に向き合ってきた者として、精神科医が心の病のための薬を安易に出してしまう現状について一章を割いている。


実のところ、私が友人の精神科医に聞きたかったのもこのあたりの問題だった。心の病を発した人に薬を処方する「薬物療法」が必要なのは理解できる。ただ、患者に薬を継続的に与えることが根本的な治療にならないのなら、投薬後、いつになれば薬の処方から離れていけるかについて、医師の見通しや見積もりはどうなのか。「薬物療法」以外の、臨床心理士あたりが行う心理療法・認知行動療法などの治療法は現状どうなっているのか、その実情を知りたかったわけだが、どうもこれらの治療法の旗色は良くないようなのだ。


「・・・かつて私は、わが国の精神科医療をこう評したことがある。曰く、「ドリフ外来」。つまり、「夜眠れてるか?飯食べてるか?歯磨いたか?じゃ、また来週・・・」といったやりとりで、次々に患者を診察室に呼び込み、追っ払う。そのありさまを、ドリフターズの『8時だヨ!全員集合』のエンディングのかけ声になぞらえたつもりだった。これは批判であると同時に自虐でもあった。弁解を許してもらえば、何もすべての患者にそうしているわけではないのだ。日に50人診察するとして、そのうちの何割を「ドリフ外来」的にサクッと捌けるかで、その日の診療で重症者にどれだけ時間とエネルギーを割けるかが決まってくる。・・・業務マネジメント上、やむを得ないことなのだ。とはいえ、これは容易ではない。・・・こちらが平均的な再診患者に割くことのできるのは5~10分だ。患者が抱えている問題の多くは未解決のまま先送りとなる。そんなとき、今日のところは矛を収めてもらおう、いったん兵を引いてもらおうとして、つい口に出てしまう言葉が、「お薬を調整しておきましょう」なのだ。・・・断言できることがある。おそらく私は薬をいっさい処方しない精神科医にはなれない。もちろん、できるだけ無駄な処方は避けるべきだと思っているし、そもそも、薬物依存症治療が専門である以上、患者に薬を出すよりも薬をやめさせることのほうが多い。しかしそれでもやはり、まったく薬を使わないことはできないと感じているのだ・・・」


松本医師は、現状の心療内科のシステムに限界があることを率直に告白している。私の友人の精神科医も心療内科のこうした限界をやはり同様に認めるが、それでも改善の努力を模索している。ただ、私のような外野から率直に思うのは、心療内科のなかで医師を頂点としたヒエラルキーでなんとか完結しようと無理ばかりせずに、もっと外の世界と連携したらどうかとも思うのだ。薬物・アルコールなどのアディクションは専門的治療を要するだろうが、うつなどの心の病に対しては、どこかの時点で心のストレス耐性を上げていく方向性へと転換していくのも一つだろう。


私の知人である公的機関でキャリアを積んだ心理専門家は、適度な運動やトレーニングがストレス耐性を養うには適していると断言する。これについては私も同感なのだ。私自身はプロのスポーツトレーナーではないが、ジムに通い始めたのは10代のときであり、以来、ジム通いを続けながら独学を重ねてきたので知見は少しある。そして、これまで生きてきたなかで縁もった友人・知人たちのなかで、何かしらの形で心に問題を抱えた者たちには、場合によってトレーニングに誘いしばらくの間一緒に汗を流すようにしてきた。彼らの職業は様々だったし、体力や筋力もそれぞれ違ったが、数カ月も経てば体と心に良い変化が生じた。そして、少しのタフネスを身に付けて、またしかるべき歩みへ戻るようにもなった。


もちろん、ただ筋トレをするのではなく、心拍数が上がり呼吸が乱れてくるなかで、心に浮かびくる情景や気持ちなどを聞きながら、端的な言葉のコミュニケーションを交わしていく。そして、自分の体の意外に知らなかった筋肉パーツを丁寧に鍛えていくうちに、徐々に自分の心のパーツにも丁寧に向き合っていく流れが生まれ、どこか心身一如の効果も出てくるようだ。もっとも、所詮は私の限られた経験と知見に過ぎないし、科学的かどうかもよくわからない。こちらは限られた範疇でのボランティアであり、医療行為ではないからとやかくいわれることもない。


ところで、巷に多くある心療内科であるが、診療方針については自由裁量が多くあるなかで、開業医は互いの技量向上のためにそれほど意見交換をしないとも仄聞した。そうなると、医師たちは常に個人戦で現場に立ち続け、新たなトレーニングについて互いに学ばずに自己完結を求められることになる。それはなかなかハードだろうし、これが心療内科の医療水準の向上を妨げているならば、患者にとって大切な機会が失われているようにも思う。


***


筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

~ 誠実に対話を行い 真剣に戦略を考え 目的の達成へ繋ぐ ~ We are committed to … Frame the scheme by a "back and forth" dialogue Invite participants in the strategic timing Advance the objective for your further success

0コメント

  • 1000 / 1000