温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第109回】 加地伸行『儒教とは何か』(中公新書,1990年)
儒教といえば死後のことは語らないといったイメージで受け止められることが結構多い。儒教の原点ともいえる『論語』の一文、孔子の弟子である子路が「鬼神」を祭る在り方を尋ねたとき、孔子は「未だ生を知らずんば、いずくんぞ死を知らんや」と答えている。これを引くことで、儒教は死後を論じない「合理的」なものとして扱われる。他にも有名な「子は怪力・乱神を語らず」もセットでよく引用される。儒教に対してのこうした見方は妥当といえるだろうか。
江戸時代、徳川幕府が取り入れた檀家制度によって、人々は仏教の何かしらの宗門に属することになり、そこから先祖供養を含む仏事・法事を慣習として受け継いできた。今ではこれらも簡素化されてきているが、日本の寺院の多くはこの檀家制度が続いてきたことによりその立ち位置を保っている。先祖供養は仏教伝来のものと思われがちだが、元は儒教の影響によってなされたもので、インドに起こった仏教自体は元々先祖供養を行う習慣とは関係が無かった。仏教が中国に伝播しその地に根づいていく過程で、儒教が持っていた祖霊崇拝(祖霊信仰)を取り入れていったのが事実である(輪廻転生をベースとする仏教では祖霊信仰は重視されなかった)。
「生きていることの苦しみ」よりも、「生きていることの喜び」に重きを置く儒教では、この世に長く留まることを願い、死後もまたこの世に再生することを望む素朴な気持ちが発展して、いつしか子孫が祖霊のために「招魂儀礼」を行うようになったとされる(子孫もまた自らが祖霊となったときに同様に新たな子孫に招魂儀礼を行ってもらうことを期待した)。この儀礼によって祖霊が一時的にでもこの世に再生が可能と信じ、そのための葬礼や祭礼の在り方が定められていった。こうした慣習は、孔子が生きた時代にはすでに根づいており、死後のことを扱っていたという意味では、儒教は宗教としての要素が強く、思想的に元々「合理的」なものばかりではなかった。
祖霊崇拝の感覚は日本や中国を含む東アジアには大きく影響を与え、仏教と融合するなどしながらも残ることになった。他方で、儒教の「合理的」な部分がより理論的に進化し、宗教よりも哲学(倫理・道徳)としての立ち位置を押し出して来たのも事実である。要するに儒教には「合理的」ならぬ宗教的側面、「合理的」な哲学・倫理・道徳的側面の二つの潮流が営まれてきたのだ。
儒教のこうした変遷や揺らぎをその原点から近現代に至るまで分かりやすく網羅した本に、漢文学者・加地伸行著『儒教とは何か』(中公新書)がある。本書は次のような書き出しで始まる。
「儒教とは何か――葬式を例にとってみよう。葬式の中に、儒教が落としている影を見ることができるからである。日本で葬式と言えば、まず仏式であろう。葬式があると聞けば、日本人の大半は、まず仏式と思って数珠を持って参列する。・・・ところが、参列してみると、参列者のほとんどが仏式葬儀において最も大切なことが分っていない。・・・葬儀場、たとえば寺院の本堂としよう。・・・そのとき、参列者のほとんど百パーセントの人は、葬儀場に安置されている死者の柩や写真や白木の位牌を拝んでいる。特に写真に向かって拝んでいる。これはおかしい。・・・仏教徒であるならば、その寺院の本堂中央に安置されている本尊をこそ拝むべきである。・・・では、人々はなぜ柩を拝むのか。これは実は、仏教ではなくて儒教のマナーである」(『儒教とは何か』はじめに)
漢文学者の加地伸行氏は、漢籍の研究者として知られ、長年『論語』に向き合い、その集大成として自らの手で訳している。本書は、序章(儒教における死)、第1章(儒教の宗教性)、第2章(儒教文化圏)、第3章(儒教の成立)、第4章(経学の時代・上)、第5章(経学の時代・下)、終章(儒教と現代と)で構成されている。一瞥してわかるように儒教の成立から発展・変遷を踏まえ現代に至るまでを網羅している。
そのなかで、儒教が形式を変えながらも死を扱う宗教性の側面、形而上学宇宙論という哲学性の側面、家族論を基礎とする政治論、「孝」を軸とする家族論(これらを併せて礼教性と呼ぶ)の3つの絡みを論じている。宋代以降、儒教といえば儒学としての側面が強くなり、死後のことを論じるのを忌避し、宗教性が排除された部分が重視された事実がある。だが、加地氏は本書を通して儒教が持つ宗教性が社会慣習や庶民の感覚に、如何に生き残ってきたかをテーマの一つとして重点をおいて明らかにしている。その動機について次のように喝破している。
「儒教は死と深く結びついた宗教である、と私がこう述べるとき、ただちに日本はおろか世界中から(特に中国から)多くの反論が湧きあがってくることであろう。儒教は合理的・現実的であって、死などは語らないとか、儒教の祖先崇拝のようなそんなものは宗教ではない、といったふうにである。ともかく儒教を宗教として認めないというのが通説と言っていいくらいである。こうした通俗的反論を私は聞き厭いた。それらをつきつめると二つの問題となる。一つは、儒教と死との関係は何かということ、いま一つはそれでは宗教とは何かという、宗教の定義の問題である」(同第1章)
後漢以降、中国では支配体制やシステムにとって、統治のためのツールとして哲学性、礼教性を軸とした儒教、儒学が欠かせない手段となっていった。儒教の側が権力に必要とされるために、自らをどのように変質させていったかを本書では論じている。後漢の知識人たちは、それまで古の聖人の言葉を含むものとされた典籍である『詩』『書』などを、どのように解釈するかを競い、ときに自らの都合の良い形で解釈やこじつけを行い、その時代にあった政策を献言するときの補強材料として使い始めた。そして、『詩』『書』を権威づける意味でも、「経」の文字をつけて『諸経』『詩経』などと呼んでいくことになった(「経」の文字は、織物にたとえるなら、まっすぐな縦糸を表す。そこからまっすぐな正しいものとの意味を含む)。加えて、『易』という由来もはっきりとはせず、儒教とは関係のなかった書物を、周の文王や周公がつくったなどとし『易経』と銘を新たにブランディングして持ち上げていった。ここから「経学」が生まれてくる。
「周王朝時代の儒教においては、大君主とは、諸侯連合体の上にある周王であった。すなわち大共同体の上にある君主であった。しかし、前漢王朝以後においては、皇帝と諸共同体との間に中央政府の息のかかった官僚体系が存在することになる。とすれば、儒教はいつまでも諸共同体の意識の反映として在るだけに終るわけにはゆかなかった。中央政府官僚を無視するなどというそんなことをしていると、それこそ時代遅れとなり、滅びいってしまう。とすれば、中央集権下のこの官僚制機構に、なんとしてでも乗りこむ必要があった・・・この官僚組織に乗りこむため、儒教は大きく変貌をとげる。すなわち、経学という新しい学問への変貌である」(同第4章)
儒教から哲学性や礼教性の部分が抽出され、それらを政治システムに適応していくために新たな学問が創り出され「経学」となった。そして、それは宋の時代に朱熹の「朱子学」が起こるベースとなり、朱子学こそが学問の正統なものとして扱われていく。科挙に合格するために朱子学に則った回答が求められる以上、高級官僚となって支配者の側に回ることを志す者にとって、儒教をベースに深遠なる思索をするよりも、朱子学の解釈を暗記することが重要になっていた。ここに儒教の哲学性や礼教性は大きな権威となるが、孔子の時代のそれとは大きく変質してしまった。ただ、朱子学もまた1905年に科挙が廃止されると、その力を急速に失うことになる。
ところで、儒教の宗教性の部分もまた力を失ってしまったのだろうか。加地氏は次のように言う。
「儒教の宗教性は、現代においてしぶとく生き残っている。すなわち、孝である。祖先崇拝・親への敬愛・子孫の存在という三者を一つにした生命論としての孝、死の恐怖・不安からの解脱に至る宗教的孝である。その孝は、日本では仏教が吸収してしまってはいる。しかし、家庭における仏壇は、実は仏教ほんらいのものではなく、儒教における廟・祠堂あるいは祖先堂(祖先の神主を祭る場所。みたまや)のミニチュアである」(同終章)
加地氏は、本書のなかで自らを真言宗信者として受戒していると告白する。そして、真言宗信者として仏教、同時に祖先崇拝の原感覚を提供する儒教の両方を、論理矛盾を知った上でともに大切にしているという。加地氏は、論理矛盾を知った上で大切にするとさらっと書いているが、この一言は強烈なものだ。儒教、仏教それぞれの論理的整合性をギリギリまで追求しつつも、最後は論理矛盾をあっさりと呑み込んでしまう芸当は、知性を渡世や仕事の手段としてだけには用いず、道としても踏まえ、真摯に歩む人だけが出来る気がするのだ。
『論語』のなかで、孔子が弟子の子夏に対して「君子儒と為れ、小人儒と為る無かれ」(教養人(君子)であれ。知識人(小人)に終わるなかれ)といっているが、この一文を思い起こさせてくれる。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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