温故知新~今も昔も変わりなく~【第110回】 小室直樹『新戦争論~平和主義者が戦争を起こす~』(光文社,1981年)

社会科学の考え方を学ぶために、評論家の小室直樹氏(2010年逝去)の作品は10代から20代にかけて良く読んだ。『論理の方法』『日本人のための宗教原論』『日本人のためのイスラム原論』『日本人のための経済原論』などなど。論旨明快な氏の手にかかれば、世の中の複雑な問題も快刀乱麻を断つかの如く片づけられていく。もちろん、現実がそのようになるのではなく、現実の捉え方がきちんと整理されるという意味においてだ。


小室氏は評論家として名が知られるよりずっと前から、ボランティアで「小室ゼミ」と呼ばれる無償ゼミを主宰し、経済学、法・社会学、比較宗教学、数学などを希望者に教えた。ここで学んだ人たちのなかには今日学界などの第一線で活躍されている方々の名が連なる。私は小室氏の謦咳に接する機会はなかったが、昔、氏を担当していたという編集者から、小室氏の話を聞いたことがある。頭脳明晰でありながら、大変な変わり者であったと表現をされていた。


氏の比較的若い時の作品に『新戦争論~平和主義者が戦争を起こす~』(昭和56年初版)がある(後に『国民のための戦争と平和』と改題されて復刊)。この本は日本人が抱きがちな戦争観とその問題についてストレートに切り込み、戦争について大胆かつ挑発的に論じた作品といえる。ロシアによるウクライナ侵攻から平和の幻想が破れ、日本の防衛の在り方を根本的に考え直すことを求められている今日日、本書のような作品もまた何かしらの価値を持つように思う。本書の前書きは次のようにはじまる。


「平和とデモクラシーと、どちらを選ぶか――もし、どちらかしか取れないという岐路に立たされたとき、どうするか。この、デモクラシーにとって、もっとも根源的な問題が、日本人に問いかけられたことは、一度もなかった。もうどんなことがあっても戦争は嫌だ。この感覚から戦後日本はスタートした。あんな悲惨な戦争をなくして平和をもたらしたものこそデモクラシーだ。だから大事にしなければならない。かくのごとき幼児体験によって、日本デモクラシーは、とんでもない奇形的なものとなった。われに自由を与えよ、然らずんば死を与えよ、とは有名なシーレーの言であり、すべてのデモクラシーはここを出発点とするのであったが、戦後の日本にかぎって、そうではなかった。平和もデモクラシーも、それだけではない、未曾有の豊かさも、みんなセットにならないと受けつけないというのだ」(まえがき)


第1章は「“平和主義者”が戦争を起こす」というタイトルによって構成されている。そこではまず、戦争を憎んで否定することは、ある種人間の自然な行為であるとしても、それは個人の心の内側で起きているものに過ぎない。ただ、戦争は国家の政治・政策の範疇の問題であって、国家なる存在は単純な個人の集合体という側面で割り切れるものではない。「社会は個人の算術的合計ではない」というのが社会学の基本目的命題なのであり、ひとりひとりが平和を願うことが、必ずしも平和が叶えられることに結びつくものではないという考えを軸としている。


小室氏はこの部分の詳細を、「個人と社会の並行主義(パラレリズム)」などといった社会学の視座から説明していく。それは、「ひとりひとりの個人がよい人になれば、社会もよい社会になる」という、個人レベルで成立する命題が、社会(国)レベルでも成立するとの考え方である。ここから敷衍し、「国民のひとりひとりが平和をねがえば、国家も平和をねがうことになり、国際社会も平和をねがうようになる」といった図式が生まれてくる。一見もっともらしく思えるが、こうした個人と社会の並行主義はシンプルには成立しないと、社会学の始祖ともされるデュルケムを引きながら展開していく。


要するに、ひとりひとりのレベルで平和に反対する人などいないだろうし、それは総論にはなり得るかもしれないが、各論となったときに、ひとりひとりが平和のために自らの欲をどこまで犠牲にできるかがシンプルな総論になることはまずない。願うことが叶うことに即座に結びつくわけがないことは頷ける。本章の後半でさらに次のように言う。


「戦争は、個人の良心の問題として片付けられるほど、単純素朴な事柄ではない。世界の人びとの心の中に灯をともせば、自然となくなるようなたわいないものではないのだ。戦争は、国際紛争の解決を目的とした、巨大な努力の体系である。戦争に訴えるか否かの重大な意思決定を行ない、人的物的資源を戦争遂行のために組織的に動員し、刻々と推移する客観情勢を的確に判断して最適な戦略を見いだしながら、国家機構を操作することである。・・」(第1章)


第2章は「戦争を否定すると近代文明が崩壊する」とのタイトルで構成されている。小室氏は、戦争について、理性が完全に失われた状態で、ただの剥き出しの暴力を発動させ続けるものとは本来違うとする。要するに、ただの皆殺しを追求するのを目的とするようなものは、戦争ではない。戦争が国際紛争解決の手段である以上、相手に対して自らの意志を強制するのが目的であって、敵を殺傷すること自体が目的ではないとする。その上で次のように喝破する。


「戦争は、人類がその文明史を通じて創造してきた、高度に組織化されたある種のメカニズムであり、制度である。戦争は、自然の次元にあるものではなく、高度に人工的なものである。・・第二に、戦争は、そのような主権国家の間でお互いに実力を行使し合うものだが、その実力行使自体が組織的で規範的なものである。戦争の開始、終了などのプロセスには、いちいちルールがある。末端の戦闘にも厳しいルールがある。これが制度でなくて何であろうか。戦争は、国際社会の法秩序が崩壊することでもない。ましてや、法の空白が生ずるものではない。別個の法秩序によって置き換えられるだけの話である。つまり、平時国際法から戦時国際法への移行である。戦争は高度に文明的な制度なのだ」(第二章)


その上で、戦争と平和を単純な対立概念として捉えるべきではなく、どちらも文明が生み出したものとして考えるべきだという(余談だが、哲学者カントは、「永遠につづく平和がわれわれにとって幸福をもたらすのは、文化が完成された後のことであり、文化が完成されなければ、永遠につづく平和はありえないのである」(『人類の歴史の憶測的な起源』)といっている)。


なお、小室氏は、こうした見解に対して強い反論が出ることを予想し、第3章「国連の幻想と国境の思想」において、国連憲章が認める「個別的自衛権」および「集団的自衛権」の問題も引き合いに出しながら、戦争の本質をさらに深く論じていく。なお、本書は昭和56年初版ということもあり、この章の内容の一部は今日の現状に当てはまらない部分も出てくるのでそこは割り引くとして、小室氏は文明史という視座から次のように喝破する。


「国連の基本理念は、第二次大戦の結果をそっくりそのまま、できるだけ長期に維持しようということである。第二次大戦後の「現状維持」を恒久化しようとするものである。国連は、第二次大戦後の現状維持の執行機関なのである。当然のことながら、国際社会は刻々と変化する。長期的に見れば、国際社会は流動するものである。それにもかかわらず、特定の時点における「現状」を固定してよいものだろうか。また、そんなことが人工的にできるものだろうか・・」(第3章)


先に、本書のことを戦争について大胆かつ挑発的に論じたと表現したが、それは平和を希求するあまり戦争を考えることを禁ずるような固定的な価値観に対してのみ当てはまる。平和はときに破られるし、その後で、戦争にどのように枠を嵌められるのか、その手練手管と限界を求める視座からは、実のところそれほど大胆かつ挑発的とはいえないのだ。


さて、ロシアがウクライナに侵攻を開始したとき、それを非難する論拠の一つとして国連憲章第2条第4項を引き合いに出し、武力による一方的な現状変更を認めないといった意見が西側各国から出された。日本もこの立場に賛同し、許容される範囲でウクライナへの支援を行ってきた。このことは随分と常識的で理性的なことのように思える。また、日本の安全保障にとって大きな脅威となっている中国の東シナ・南シナ海での行動についても、やはり武力による一方的な現状変更は認められないとの主張を軸に対抗している。これもまた、こちら側からすれば、常識的で理性的なものに聞こえる。ただ、文明史の視座からすれば、このような主張は十分な力を発揮し得ないことがある。建前はともかく、本音で覇権を求める国と暫く対峙することが求められるとき、戦争が持つ本質と様相は大いに研究されなければならない。無論、これは必要最小限度であってはならないのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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