温故知新~今も昔も変わりなく~【書評・第130回】 長南政義『二〇三高地~旅順攻囲戦と乃木希典の決断』(角川新書,2024年)
・戦史とは何か
角川新書から8月に刊行された長南政義著の『二〇三高地~旅順攻囲戦と乃木希典の決断~』は数度の増刷という快進撃を続けている。しかしながら、日露戦争のなかで起きた旅順攻囲戦、そのなかの二〇三高地の戦いに快進撃はなく死闘・激闘の繰り返しとなった。二〇三高地のキーワードが出ると、そこを擁した旅順要塞の攻略の指揮を任された第三軍司令官の乃木希典がセットで必ず登場する。司馬遼太郎の『坂の上の雲』で描かれる乃木将軍の人物像はだいぶ使い古された感はあるが、何度も白兵銃剣突撃を命じていたずらに兵士の犠牲を重ねさせたイメージは今でもそれなりに強い。
他方で、軍事的視座から捉えるとこのイメージは虚像でもあり、実際の乃木は可能な限りの工夫を重ねて指揮をとったと評する声もある。乃木の指揮のもと第三軍がいかに旅順への道を拓き、どのように戦ったのか。そして、乃木の指揮ぶりは軍事的視座からどう評されるべきなのかを、史実の歩みと戦術の原則をわかりやすく示しつつ一般向けに解説した良書の点数は限られるが、長南政義の『二〇三高地』はそのなかの一冊だといえる。本書の略歴において、著者は自らの職業を「戦史学者」とし、大学院での専門教育やキャリアの歩みを記載している。戦史学者を公言する職業人が日本に如何ほどいるかはわからないが、歴史学者と比べればその数はきわめて少ないものだろう。アカデミズム界隈での両者の関係性や定義の違いはよく知らないが、両者のアプローチの仕方の違いはある。
『危機の二〇年』で有名な歴史家E・H・カーは、「歴史とは歴史家と事実との間の相互作用の不断の過程であり、現在と過去との間の尽きることを知らぬ対話」(『歴史とは何か』)とし、歴史の研究とは原因の研究だとする。それは歴史を因果関係で捉えていくことになるが、歴史上の事実を「必然性」「偶然性」などの言葉で安易に片づけないで、合理的かつ論理的に因果を探り、現代にとって何かしら価値のあるものを導きだしていく作業となる。ただ、その過程で事実とは異なる仮定や、他の目的や手段が想定されたならば、どのような結果となったかなどについては主たる関心とはならない。
戦史学者がこの歴史研究の一つのスタンダードに反対を示すということではない。ただ、戦史の研究は事実の因果関係を探っていくとともに、仮定の話、別の目的や手段があったとしたら、要するに「タラレバ」を重視もしていく。『戦争論』を著したクラウゼヴィッツは、人間の動機を知るのは難しく、実証には困難があるのを認めつつも、戦争が単一の原因から生ずることはなく共同原因が多くあるとする。その上で、戦争で用いられた手段を検討して、手段自体の結果がどのようなものであったか、それは決定した者の意図するものであったか。さらには他に可能な手段はあったかなどを研究することを論じている。戦史の研究はこのような部分に重点を置くという意味では、歴史の研究とは色合いを少し変える。本書『二〇三高地』は戦史研究のこれらの視座が組み込まれているものだ。
・第三軍に科されたもの(第1章)
同書は全4章で構成されており、第1章「齟齬」では、日露戦争における旅順攻略の意味合い、陸海軍戦略の違い、第三軍の編成過程と攻略準備、そして旅順要塞にたどり着くまでの前哨戦などを論じている。日露開戦前、日本陸軍は要塞を攻略するための研究が不十分であり、要塞の二文字からイメージされるものが、長年かけて構築された堅固な「永久築城」ではなく、精々強固な「野戦築城」程度のものであった。旅順要塞そのものについて情報を得る努力をしても、露の警戒も厳しく全貌を知るようなインテリジェンスは手に入らなかった。
開戦に先立って、陸軍は旅順要塞を攻略せずとも封鎖と監視に留めて、他の方面での決戦に戦力を注ぐべきだと考えていた。しかしながら、海軍は連合艦隊がロシア海軍と優位のうちに決戦を行うためにも、ロシアの太平洋艦隊が旅順港にこもり、遠くから回頭してくるバルチック艦隊が合流することを強く警戒していた。したがって、海軍は陸軍が早期に旅順要塞を攻略してくれることを望み、根拠地を失くした太平洋艦隊を先に覆滅することを企図していた。このことで旅順攻略が決まり、第三軍司令官に乃木が任命された。
本書では、開戦前に第三軍司令部が新たに編成されていく部分に焦点を置いて、乃木以外の幕僚たちのことについても論じているのが特徴的でもある。軍司令官と軍参謀長の相性の程度は、軍の指揮に大きく影響を与えるが、軍参謀長に新たに任じられた伊地知幸介と乃木の相性の問題に触れている。更には、旅順と他の戦線となるだろう北方方面とが地理的にも離れていることから、第三軍を満州軍総司令官ではなく大本営の直属に置くべきといった議論があったことなど指揮系統を巡る問題も解明している。
1904年6月6日、第1師団、第9師団、第11師団を擁する第三軍の司令部は張家屯に上陸を果たした。第三軍はロシア軍から何らの抵抗も受けずに即座に旅順要塞の攻略戦に入れたわけではなく、そこへと前進していくまでの間にも幾多の激闘が繰り広げられている。第1章では旅順要塞へと接近していく過程を「前進陣地攻略戦」として独立させて扱っている。著者は戦史学者の本領を発揮して、これらの戦いの際、第三軍の司令部のなかに、進軍と攻勢の時期を巡り攻城砲などの十分な火力が与えられるのを待つか、露軍が防禦を固めてしまう前に進むかといった、パワーかスピードのどちらを優先するべきかといった論争があったことなどを掘り下げている。また、旅順要塞へ到るまでに方々に設けられている露軍の前進陣地に対して、攻撃重点をどこに置くかなどの計画と実態に応じて変更されていった事実を述べつつ、事前の偵察で可能だった範囲と、それらを元にした判断の困難の程度を検証している。戦術上の原則を示しつつ、乃木がとった決断が適切であっかたどうかにも、言葉は控え目ながら評論へと踏み込んでいる。
・ 第1回総攻撃(第2章)
第2章「迷走」では、第1回旅順総攻撃に焦点を置いて、その攻撃準備、攻撃計画、攻撃実施を論じている。「強襲法」を狙った戦場で起きる多くのミスや錯誤、仮定の研究、失敗の原因についてまで論究をしている。第三軍は上陸から2か月以上かけて旅順要塞へと到達するが、それまでの戦いで相当数の犠牲を出した。要塞を目前にしてそれを攻略するための作戦へとシフトしようとした時までに、露軍はその防備を一層堅固なものにしていた。第三軍は要塞攻略にあたってまずは作戦統制上の攻囲線を設けて、そのための陣地を占領して、攻撃のための「攻城砲兵」を展開させていった。これは鉄道網整備を含む一大作業となったが、著者は現場を再現するかのように精緻にこのあたりのことを書いている。要塞といっても巨大な一つの構造物が存在しているものではなく、軸となる要塞のコア部分以外にも周辺の高地や山には砲台や堡塁が幾重にも構築されており、それらは互いにカバーができる複雑な代物であった。大本営などは早期の攻略を求めてくるが、実現するにはあまりに難易度の高い要求であった。第三軍司令部では、攻撃期日だけでなく、攻撃方法を巡って、強襲か夜襲(奇襲)などで対立した事実とともに、著者は当時の要塞攻撃方法についても丁寧に解説している。
「当時の要塞攻撃方法は、大別すると、不規攻法と正攻法(攻撃発起位置から対濠・坑道を使用して敵堡塁に接近し、砲撃と工兵の爆破後に突撃する攻撃方法)とに分かれ、さらに不規攻法は、①奇襲(敵に発覚されることなく要塞に逼迫し、守備薄弱な地点から不意に要塞内に侵入して、これを奪取する方法)、②強襲、③長囲(要塞を包囲して外部との交通を遮断し、弾薬・糧食欠乏のために開城をやむなくさせる方法)、④砲撃(猛烈な砲撃によって至大の損害を与えて、敵の士気を阻喪させることにより開城に追い込む方法)とに分かれる・・」(第2章)
第三軍は強襲を採用するが、それは火砲によって徹底的に露軍の堡塁・砲台を潰したあとで、編成した複数の部隊で突撃をかけるもので、成功の是非は火砲による効果がどのくらいあがっているかに大きく依存するものであった。この第1回総攻撃は、露軍の防備が最も堅かった要塞の東北正面に強襲をかけることになり、結果的には1万6千人近い死傷者を出している。このことは乃木の無能を象徴するかのように批判されることが多い。ただ、著者は第三軍が東北正面を選んだ理由、この決断の過程を取り上げて、第三軍が要塞の防備について既知と不知であった事実をそれぞれ整理して、何が可能であったかを考察している。東北正面ではなく、西北正面を攻撃重点にしていたら勝利できたのではないかといわれる批判があるが、著者はこれにかなり踏み込んで論じて、それが適切な批判とはいえないとしている。なお、第1回総攻撃では第三軍が頼りにしていた火砲の火力が不十分であって、期待していた成果をあげることは出来ないうちに兵士に強襲をかけさせることになった。著者はこの熾烈な戦いについて書いているが、筆に力がこもっているシーンがある。
「・・・そこで、連隊長の大内守静が、自ら予備隊を率いて陣頭に立ち、累々たる死屍を乗り越えて突撃を実施したものの、身に十数弾を浴びて副官・連隊旗手と共に戦死。二人の大隊長以下多数の将校も死傷したため、生き残った百余人は負傷した兵卒が捧持する軍旗の周囲に集結し、堡塁下の地隙に身を潜めることとなった・・・」(第2章)
著者は第1回総攻撃のなかで乃木がおかした判断ミスについても指摘しつつ、この総攻撃の失敗の原因についてよく言われる要塞に対する知識不足、情報収集の失態、正確な地図情報の欠如、偵察と突撃の不十分な準備などを挙げつつも、もっとも大きな一つとして火砲の効力と運用の問題に触れて本章を終えている。
・第2回総攻撃(第3章)
第3章「決断」では、第2回旅順総攻撃に焦点を置き、強襲法から正攻法へと戦法が変わりゆく過程、そこで発揮された乃木のリーダーシップ、新しく投入された火力の発揮と効果などを論じている。第1回総攻撃が失敗に終わって、第三軍の戦力は大きく失われた事実は、天皇以下、参謀本部、陸軍省にも衝撃を与えた。火力不足を痛感させられたことで、第三軍には大口径の重砲二十八サンチ榴弾砲を投入されることになった。これはもともと軍艦を目標にした海岸砲で、当時日本の主要な港湾に配備されており、砲弾の備蓄も相当量があった。第三軍は二十八サンチ砲が露軍の堅固な防備を打ち砕いてくれることに賭け、可能なかぎり急いで運ばせて攻城砲として使えるように土台を造り速やかな運用ができるように全力を尽くしている。また、第2回総攻撃に向けた戦法を論じるなかで引き続き強襲法をとるか、正攻法をとるかで幕僚たちが決めきれない議論を続けるなか、乃木のリーダーシップによって正攻法を取ることに決定したことに触れている。
なお、正攻法というのは真正面からただ突撃をかけるというようなものではない。それは要塞に可能な限り肉薄するまで身を隠したまま進める道をつくるもので、時間かけてジグザクに深く掘りながら進み、一定程度前進するごとに陣地をつくるということを繰り返していく。その作業は要塞の40~100メートルくらいに近づくまで行い、そこから突撃をかけるための陣地をつくって、兵士たちが狙われる時間を可能な限り短くした状態で突撃に出られるようにするものだ。正攻法は着実であるが時間がかかるという部分もあり、これは大本営が期待した期間内で要塞を攻略することを難しくする可能性もあった。
第三軍は第1回総攻撃ですでに全軍の三分の一に及んで損害を被っているが、このなかで第2回総攻撃に向けていくためには組織体としてはエネルギーを大きく必要とすることは想像に難くはない。著者は総攻撃に向けた乃木の統率力が相当なものであったと評して、次のような記述をしている。
「乃木は師団長や幕僚のみならず、第一線で戦う将兵からの信望もあつめた。戦線後方にいて指揮をとることを嫌う彼は、総攻撃の時には軍司令部のある柳樹房からより戦線に近い、攻城山(豊島山、二一八高地)や高崎山などに指揮所を推進させて指揮をとると共に、一ヶ月の約半分を戦線巡視に費やし、絶えず第一線の将兵と接触して慰労の言葉を投げかけた。「乃木日誌」を確認すると、乃木は抗路頭や敵陣まで約二百~三百メートルの最前線にまで赴いて視察を行なったため、少なくとも四度敵から狙撃を受けている」(第3章)
こうした行動は第三軍を上は師団長から兵士までの団結を強めたとするが、結果的にはこの第2回総攻撃も失敗に終わった。本書では攻撃準備、攻撃展開までを詳細に追っているが、その過程で作戦計画を巡る満州軍と第三軍の対立や、戦場における「摩擦」や混乱が生じたこと、何よりも第1回総攻撃に比べて確実に肉薄したのだが、露軍の必死の抵抗の象徴ともいう「側防機関」が要塞の各所にあり、それがまたしても第三軍の総攻撃を頓挫させたことを述べている。著者は第3章を終わるにあたって「ただし、敗北の中にも曙光が見られた。第一回総攻撃と比べて、戦闘成績が改善された点だ。すなわち、第二回総攻撃の死傷者は三千八百三十人(第一回総攻撃の四分の一弱)・・・」(第3章)とつとめて冷静な書きぶりに留めている。
・第3回総攻撃(第4章)
第4章「屍山血河」では、この章タイトルの通り、第1、2回の総攻撃の失敗で死屍の山を築いた上で、さらに第3回総攻撃を行うことの厳しい決断、その過程で要塞への攻撃正面が二〇三高地へと集中していく流れとその死闘を論じていく。総攻撃に2度失敗したことで、乃木に対する圧力は高まり更迭論が大きく頭をもたげてきたことは良く知られている。更迭論に対して明治天皇が断じて不可としたされているが、著者はこの部分についてニュアンスの違いがあったことに触れている。大本営からも主攻撃を東北正面から西北正面に変えるべきだとの強い意見も科され、次第に追い詰められていく乃木を軸に本章は書かれている。結果的には第三軍は軍事的合理性からも東北正面を主攻撃とすることを維持しているが、そのなかで乃木が感じた心理的圧力が一因となって悲惨な史実として言及される特別支隊「白襷隊」の実施につながったとする。著者はこのあたりの決断の過程について史料を丹念にさらって、白襷隊の編成理由として乃木が列挙しているもののなかで、合理的といえるもの、説得力を欠くものなどに分類して、乃木が相当程度心理的に追い込まれていたことを推測している。
大本営、満州軍から圧力や督促を受けながらも、新たに第7師団の増援を得ることになった第三軍は、第3回総攻撃の攻撃計画を入念に練った。それは正攻法、強襲法、奇襲などあらゆる可能な手段を併用したもので、主攻撃、助攻撃、陽動攻撃についてもそれまで以上に工夫を凝らし、露軍の各砲台・堡塁に対してそれぞれ適切と考えられる攻撃方法を採用した。この総攻撃では戦線の両翼に位置していた二〇三高地も攻撃目標に含まれていた。
第三軍は、二〇三高地が持っている価値を看破できずに東北正面に主攻撃を集中させていたのであり、それが大きなミスであったという批判が一般的になされたこともあるが、第三軍はこの高地の存在を無視していたわけではなかった。ただ、旅順要塞を攻略することが主たる目標である以上、同高地を攻略することだけに指向するわけにもいかず、総攻撃が行われた激闘と死闘が繰り返されるなかで、あるタイミングで「戦場の霧」が晴れるかのように、二〇三高地の攻略に価値が見出されて、露軍の防備も減殺されていたなかで攻略のチャンスが浮かび上がったというのが実態だとする。著者はこの総攻撃の各正面で起きていたことを詳細に描いて、その流れを分かりやすく書き出している。本書の最後「おわりに」において、著者はそれまでの全章を踏まえて、第三軍の指揮を貫徹した乃木についての評価をしている。それは乃木が野戦軍指揮官であったことに理解を示した上でその範疇で評価を行っている。このあたりは戦史学者としての立場と矜持を弁えた上での態度表明なのだろう。
なお、本書は日露戦争の一部について、軍事的視座や戦史の立場から歴史教養を着実に増やしてくれる。ただ、本書の価値は歴史教養の提供の範疇に留まるのだろうか。おそらくそうではない。同書の内容をどれだけ抽象化して考えていけるかでその価値は変わり得るだろう。ただ、その辺の仕事は著者のみに科されることではなく、戦略論などに関わる人たちの手によっても担われるべきものとも思うのだ。
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書評筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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