論語読みの論語知らず【第101回】 「「夔神鼓」(きしんこ)と祭礼」

・神話と祭礼

孔子が活躍するよりもずっと前の古代。人間は「神話」という形を頼りにして自然の仕組みを知ることに努めた。それは古代中国に限らずに全世界に概ね共通のことでもあり、それぞれの領域で神話が生まれることになった。神話を尊ぶための祭礼が編み出されて、それを執り行うことが共同体の秩序の源ともなっていた。古代中国の殷・周時代の祭礼で使われた祭器(器)が、これまでに多く発掘されているが、それらは現代において独特の個性を魅せては何かしらを訴えてくるようだ。

京都にある泉屋博古館に収蔵されている中に、「夔」(き)の神を象ったとされる絵が描かれた青銅の鼓、「夔神鼓」(きしんこ・殷後期)と呼ばれるものがある。その高さは82センチ、幅は65センチで、全体的に丸みを押し出した樽形の青銅鼓にどこかアンバランスな短い四つ脚が付着してしっかりと地に留まっており、その姿はどことなく愛嬌を放っている。「夔」(き)は中国の古い伝説などを収めた「山海経」に登場している一本足の神であり、「夔」と音楽や舞踊に関連する記述が「書経」の堯典にもある。なお、どういう流れを辿ってなのかははっきりとはわかっていないが、山梨県にある山梨岡神社にも「夔の神」とされる神像が収められている。「夔神鼓」に描かれている絵が「夔」そのものであるかはさておき、白川静によるとこうした祭器は共同体において、何かしらの呪術的機能を担うものであったとされる。


・「望」の儀礼と統治者

この時代の青銅器は主に祭器として使われ、それらの中でも多くが眺望の良い高地から発見されている。高地で見つかるのは、共同体の辺境の地において、それに属さない外部の集団への呪術的儀礼が行われたのが理由だとされる。この儀礼は「望」(ぼう)なる概念のものであり、遠くを望んで見ることで共同体の外へと威を示す呪力を発揮することを期待されたという。殷の後、周の時代になるとこの「望」の儀礼は山の上で行われ、その目的も外の集団を自らの権威に従わせる性質を強め、統治者がこの祭祀儀礼を行うものとなった。これが、やがて天子が行う儀礼のなかに組み込まれ、その下で辺境を治める諸侯が「望祭」の儀礼を天子に代わって執り行う形へと繋がっていた。やがてこれが、天子が行う「封禅」の儀礼となり、秦の始皇帝が全土を統一した際に自らの意に沿う形でもって泰山でそれを行っている。


・礼の用は、和もて貴しと為す

後に前漢の武帝も泰山で封禅の礼を行っているが、秦の焚書坑儒の影響もあってか過去の儀礼内容が判明しない中で、武帝が儒学者などの意見を聞き集め、他方で神仙の術を称する方士たちの言にも惑わされてはどっちつかずの中途半端な形で終わったとされる。このことを司馬遷が『史記』で淡々と評している。なお、『論語』に「礼の用は、和もて貴しと為す」(学而第一)とある。聖徳太子の十七条憲法の大元でもあるが、「儀礼の実行はなごやかであることが大切」という意味となる。武帝が泰山で行った封禅の礼は荘厳さや威厳あったとしても、和やかさとはかけ離れていたものとなっていたことだろう。

ところで、現代において祭祀や儀礼全般が省略や廃止の憂き目にあうことが常となってきた。それは合理性と効率性からの要求に応えている部分と、祭祀や儀礼が持つ文化の本質が忘れられてきている部分の両方によることであろう。省略、廃止で得ることができるものは分りやすいが、失われることについては論じられることは少ない。何も「封禅」のような大きな祭祀の話ではなく、日常の中でも祭祀や儀礼が廃れていくことで、一体何を失くしていくのかを考えるのも大切ではないかと思うのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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