論語読みの論語知らず【第102回】 「生き残りのために形を変えていく思想」

怪力・乱神を語る古代

生き残るために与えられた環境へと適応して形を変えていくのはなにも生物だけではない。人間が編み出す思想にもそれは当てはまる。儒教(儒学)の創始者は孔子であるという表現は適当ではあるが、孔子がオリジナルを編み出したわけではなく、孔子よりも前の時代にその原型といえるものがあった。学者によって定義や範囲は異なるがそれは「原儒」とも呼ばれる。儒教といえば「怪力・乱神を語らず」(述而篇)に象徴されるように、死後のことを語らないイメージもあるが、「原儒」では祖先の魂をこの世に戻す「招魂儀礼」の文化を尊び、それを専門としたシャーマンがいて儀式を生業としていた。これらの儀式はどこか妖しさを帯びるものであり、ときに依頼者の都合に媚びては金品を多くせしめるようなことがあったようだ。孔子はこうした低俗な部分を排除しつつ、原儒が持つ祖先から子孫への繋がりを感じさせるところから「家族理論」へと発展させた。また、「仁」を見出しては大切な倫理・道徳とし、それは周王朝の封建制の下で数多く存在した比較的小さな共同体(諸国)において重んじられるべき「政治理論」へともなった。「論語」はこれらの理論のエッセンスを語るものであるが、そこには「原儒」がもっていたどこか狂乱めいた痕跡はなく大きく形を変えている。


魚心あれば水心の事情

孔子は倫理・道徳に基づいた政治理論を諸国遍歴の中で説き続けたが、諸侯から強い支持を持って受け入れられたことはなく、孔子の生前は大きな影響力を持つことはなかった。ただ、その死後になって徐々に権威を持ち、後に圧倒的な唯一無二の学問へと変貌を遂げていく。そこには権力の側の事情と、孔子の弟子たちである儒学者らの事情が互いに引き合い、「魚心あれば水心」というような理由があった。紀元前221年に中国を統一した秦の始皇帝による統治は、急激な中央集権化を図るために郡県制を敷いた。そして、法建制の下に存在していた諸侯・王、名門・大地主などの共同体の排除・廃止を追求して、その手段として法家政治(法治)を試みている。「焚書坑儒」がどの程度の実体を有していたかは議論が分かれているが、宰相・李斯に象徴される苛斂誅求による中央統制はやがて全国での反発・反乱を引き起こして秦はあっけなく崩壊している。秦の後に天下を引き継いだ漢王朝は、郡県制と法家政治のリスクを認識して、別のアプローチを求めた結果、中央集権と封建制を混合させた郡国制を採用し、そのための手段として儒学を用いることになった。


政治の手段としての学問

郡国制は中央統制を指向しつつも、現実的に力を持っていた諸侯らとの共存を模索していくものであり、そのバランスを取るためにも皇帝を頂点とする中央政府の官僚制強化が一つの鍵となった。秦の天下では徹底的に排除されていた儒学者たちにとって、官僚として権力の側に入るチャンスの順番が回ってきたわけだが、孔子が説いた素朴な倫理・道徳を軸とした思想だけでは統治の手段としてはもはや間尺が合わないことになった。儒学者らが権力の側に立つために、学問と思想の厚みを急ぎ増やさなければならない事情に駆られて、古典に様々な解釈を編み出していくことになった。それはいわゆる「経学」のはじまりであり、それまでにあった素朴な「詩」「書」が、解釈・注釈などが付きまとう「詩経」「書経」へと変わっていった。魯国の歴史の記録に過ぎなかった「春秋」も解釈と論評が加わって、現実の政治の規範を導き出せる根拠として尊ばれるようになった。祖先への思慕、親子の親愛などを、君臣の間の忠義へと拡大するために「孝経」などが孔子の名を借りて新たに編み出されてもいった。原儒から経学までの歩みだけでも思想の形は大きく変わって、そのことで生き残ることができた。

『論語』では「人よく道を弘む。道 人を弘むにあらず」(衛霊公15-29)「人間が道徳を拡げていくのであって、遠くにある道徳がおのずと人間を開いてくれるわけではない」ともある。この一文を理想と現実の狭間、人間の欲求、政治の事情の相互作用とあわせてと感じるとなんとも味わい深いとも思う。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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