兵とは国の大事なり~戦略の業~ 【第5回】 「イランの核施設への爆撃とクラウゼヴィッツ」
・バンカーバスターによるイラン核施設への空爆と反応
米国がイランの複数の核施設へと空爆を行ったことが大きなニュースとなって世界を駆け巡った。メディアが報ずるように米軍は6機のB2爆撃機に最新型のバンカーバスター(地下貫通型の大型爆弾)「GBU57」を搭載して12発を投下、イランが地下深くに隠匿してあったウラン濃縮工場の破壊を試みた。23日現在ではダメージの詳細は不明ではあるが、米メディアは衛星写真を分析して着弾痕とされるクレーターを複数確認している。
爆撃後、米国はイランの核保有は許容しないとの姿勢を示して攻撃の正当性を主張し、イランは米軍による攻撃が国際法違反だと訴えるとともに、自衛権の発動による報復を示唆している。英国政府は米国の行動に一定の理解を示し、日本政府は一度評価を保留した後で、一定の理解を示す方向に舵をきった。
・ある記事の「終わりなき戦争」と「長期戦」という言葉
本件を巡っては様々な分析や論調があるが、日経新聞の解説記事などでは、今回の空爆によってトランプ大統領自身が忌み嫌っていた「終わりなき戦争」へと足を突っ込んだ格好となり、これはイスラエルによってうまく引きずり込まれたものだといった評価をしていた。そして、この記事の中では、「終わりなき戦争」が「長期戦」へと結びつく可能性に触れ、結果としてもたらされるリスクへの諸々の分析を行っている。記事にあるリスク分析自体に物言いがあるわけではない。ただ、「終わりなき戦争」や「長期戦」という言葉の定義や内容がどうも曖昧なままに先行して記事がまとめられているように感じもした。
戦争にも低強度の紛争から制限された戦争、大規模戦争から全面戦争まで様々な様相と段階がある。イランのわりと近くの中東諸国には米軍の基地が点在しており、イランがこれらへ攻撃を仕掛けることができたとしても、米国自体への攻撃は能力的には不可能だろう。他方で、米国はその気になれば防空能力がほとんど失われたイランに対して再度同じような航空攻撃は可能だろうが、地上軍を本格的に派兵するようなことはしないだろう(能力はあっても意志はない)。要するに何を目的として、どこまで攻撃を行い得るか、どの程度の戦争にまで拡大するかといった主導権のバランスはかなり一方に偏っている。
こうした状況において、「終わりなき戦争」や「長期戦」という用語でもって解説をすることが果たして適当なのだろうか。欧米のメディアや記事に比べて、日本の記事は戦争がどのような様相や可能性を持っているかについてあまり深入りしないことが多く、曖昧な用語が都合よく使われてまとめられてしまっている感が否めない。
・クラウゼヴィッツ『戦争論』が示唆する「長期戦」の意味
なお、日本のある有名な倫理学者は、クラウゼヴィッツ『戦争論』のことを「戦争は政治の道具に過ぎない」ということを冷静に語るくらいで、あとは現代に通じる意味ある内容はないといった評価をしていた。私はこの考え方には同意しないし、戦争の様相を深く知るために努めることが特段に倫理に反するとも思わない(倫理的であろうとするならば戦争をよく研究するべきだとも思っている)。
『戦争論』は、戦争が持つ様々な様相、たとえば決戦を目指して戦争がピークへと向かっていく流れから、敵味方ともに計画通りには物事が運ばずに決戦どころか膠着していく流れを論じ、それらの中でどのような変化が起きて政治へと影響を与えていくかなども分析して論じている。戦争という苛烈なまでのエネルギーの浪費の中において、人間がどのように物事をギリギリまで考えられるかを探求して何が言い得るのかを記述している。
要するに、『戦争論』は「終わりなき戦争」や「長期戦」について示唆してくれる部分がある。国際政治や外交を論じる際に今少し戦争の本質や様相へと踏み込んで互いに隣接させて考えていくことが必要ではないだろうか。先の記事を読んでいてふとそんなことを感じた。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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