温故知新~今も昔も変わりなく~【第6回】 勝海舟『氷川清話』・・要するに処世の秘訣は「誠」の一字だ

「精悍な面構え」という表現に触れると、咸臨丸に乗り渡米した頃の勝海舟の姿写真を想起する。幕末、勝は敗軍の将ながら、江戸の無血開城を実現し、明治新政府で要職をつとめ、しぶとく生き残り、そして好き勝手なことを言った。この記録が「氷川清話」と呼ばれる書物で、筆者はお気に入りの一冊で大切に思う人などに一方的に差し入れることがある。基本的には回顧、時局、人物、処世、所信などを語るものだが、どれも軽妙かつ深遠で、至誠でもって辛辣に語るものでとても面白い。

初めて読んだのは20代だが、今でも時折読み返す。 貧しい生い立ち、結婚してもなお貧しかった勝はこう語る。

「・・おれが子供の時には、非常に貧乏で、ある年の暮れなどには、・・餅をつく銭がなかった。ところが・・親族のもとから、餅をやるから取りに来い、と・・おれはそれをもらいにいって、ふろしきに包んで背負って家に帰る途中、ちょうど両国橋の上であったが、どうしたはずみか、ふろしきが急に破れて、せっかくもらった餅が、みんな地上に落ち散らかってしまった。・・道は真っ暗がりで、それを拾うにも拾うことができなかった。もっとも二つ三つは拾ったが、あまりにいまいましかったものだから、これも橋の上から川の中へ投げ込んで、帰ってきたことがあったけ。妻をめとった後もやはり貧乏で、一両二分出して・・買った一筋の帯を、三年の間、妻に締めさせたこともあった。・・」


「氷川清話」はこのような書き出しではじまる。少し出世したかとおもえばクビとなり謹慎を命じられ、再び復活したと思いきやまたひどい目に遭う。そんな波乱万丈でも勝はどこか前向きなのだ。そして落ち目のときの時間の過ごし方を語る。

「おれは、一体文学が大嫌いだ。詩でも、歌でも、発句でも、みなでたらめだ。何一つ修行したことはない。学問とても何もしない。ただあの四、五年間、閉居を命ぜられたおかげで、少々の学問ができた。「源氏物語」や、いろいろの和文も、このとき読んだ。漢学も、このときにした。とうとう「二十一史」も読みとおしたよ。・・」


自らを「生来(うまれつき)人がわるい」と自負する勝は人の評価もかなり手厳しい。だが、西郷隆盛のことはものすごく褒める。品川まで押し寄せていた官軍(薩長主体)がいまにも江戸城に総攻撃をかけようかというときに、勝と西郷が田町にある薩摩屋敷で談判して、それが回避されたことは有名な史実だ。
勝は命がけで出向き、西郷はそれに誠意をもって応じた。そのときの西郷の様子を勝はこう語る。


「このとき、おれが感心したのは、西郷がおれに対して、幕府の重臣たるだけの敬礼を失わず、談判のときも、終始坐を正して手を膝の上にのせ、少しも戦勝の威光でもって敗軍の将を軽蔑するというようなふうがみえなかったことだ。その胆量の大きいことは、いわゆる天空海闊で、見識ぶるなどという、もとより少しもなかった」


西郷という人物と分かり合えたことが勝の価値観に大きな影響を与えたのだろう。氷川清話中盤では日本の外交を憂いながら警世をこめてこう語る。


「外交の極意は「正心誠意」にあるのだ。ごまかしなどをやりかけると、かえって向こうから、こちらの弱点を見抜かれるものだよ」


そして、氷川清話の結語として

「あてにもならない後世の歴史が、狂といおうが、賊といおうが、そんなことをかまうものか。要するに処世の秘訣は「誠」の一字だ」と喝破する。


勝の精悍な面構えは誠の成分のあらわれなのだろう。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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