温故知新~今も昔も変わりなく~【第10回】 トルストイ『民話集』(岩波文庫,1965年)

学生の頃、トルストイといえば「戦争と平和」、「アンナカレーニナ」「復活」などなど、大作を読むことにばかりに意識が向き、「民話集」を見逃すところだった。小冊子くらいの薄い本だから書棚に並べれば他の作品に埋もれてしまう。だが、トルストイでまず何を読んだらよいと人から聞かれたら、迷わずにこの「民話集」をあげる。岩波文庫版だと5つのお話を収容するだけで、すぐに読了可能だ。しかしながら、中身は秀逸で、「二老人」などはいま読むと新たに静かな感動が起きてくる。書き出しは次のように始まる。


「ふたりの老人が旧都エルサレムへ神詣でに行こうと思い立った。ひとりは、エフィーム・タラースイチ・シェベェリョフという金持ちの百姓であった。いまひとりは、エリセイ・ボードロフという金持ちでない男であった」

よくありがちな、前者は強欲な金持ち、後者は善良な貧乏人という構図ではない。前者のエフィームは極めて生真面目で酒もタバコもやらずの働き者、綿密に計画して農業を成功させ、村役などの勤めも間違いを起こさずに果たした。後者のエリセイは心根がよく快活で穏やか、酒、タバコ、唄も嗜みながら養蜂を仕事としていた。つまり基本的に善人である二老人が人生の黄昏に連れ立って「年貢を納め」(エルサレムへの巡礼)に行くことになった。


だが、旅路で二人は予期せぬ形で離ればなれとなり、エフィームはエルサレムの神殿を目指して遠い道を歩み続けた。一方、エリセイは道中で一杯の水を求めてある一家を訪れ、そこが貧しさと飢えで死が目前に迫っている窮状をみて助けるため持ち合わせたお金をどんどん費やしていくことになった。食事の世話、病人の看病にはじまり、地主と掛け合い田んぼを取り戻し、新たな家畜まで買ってあげる。

結果的に一家は助かり、エリセイはそれを見届けると黙って去った。エルサレムまでの路銀のほとんど失ったエリセイは、一生に一度の「年貢の納め」をきっぱりと諦める。


「これだけでは、海を越えては行かれめえ。が、キリストさまの名をいって金を集めるように罪なことはしたくねえ。エフィームじいさんはひとりでいっても、わしの代わりにろうそくをあげて来てくれるだろ。わしの年貢は死ぬまでに納められねえだろうが、ありがたいことに、主は情け深くおいでなさるから、勘弁してくださるだろ」

エリセイは故郷にもどり、周囲には

「ああ、神様のお導きがなかっただよ。・・途中で金をつかってしまうし、仲間にはおくれるしさ。それで行かなかったまでのことよ・・」

と言うだけで元の生活にもどった。


一方のエフィームは、エリセイとはぐれた後に、僧衣をきた、行儀のよくない坊主と連れ合うことになる。エフィームは坊主のために食事の代金などを面倒みるが、次第にいつもつきまとってくる坊主の存在と自分の「お財布」のことが気になり、神殿にいても終始それが気になる自分の罪深さに苦しみ気持ちが滅入るなかで、エフィームはある驚くことを体験することになる。さて、エリセイは金持ちではない。だが、飢えで死にかけているものに直面して犠牲を省みず躊躇せずに助けに入った。


仮に二人の立場が入れ替わっていたなら、それぞれがどのような行動に出ただろうかと空想してみる。いや、こんなことを理屈で考える必要もないのだろう。

それぞれ旅路の物理的な遠い近いはあるけども、それぞれに見合った試練が与えられただけのことで、「道」は気づけばいつだってそこにあることを仄めかす作品なのかもしれない。


***


筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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