温故知新~今も昔も変わりなく~【第13回】 アダム・スミス『道徳感情論』(岩波文庫,2003年)

高校時代、教師が授業でアダム・スミスの「国富論」のことを少し語った。私はなぜかほとんど直観的に、この教師はかなりいい加減にテキトーなことを言っているだけだと感じた。だから仕方なく図書室でアダム・スミスに関する本を持ち出したのを覚えている。案外、私が経済学部に進む小さなきっかけだったのかもしれない。

アダム・スミスといえば重商主義を批判的にとらえた「国富論」が圧倒的に有名で、もう一つの著書であり倫理を語る「道徳感情論」がどのくらい今日読まれているのかはよくわからない。なお、私がこの本を読んだのは大学卒業以後のことだ。「道徳感情論」の中でキーワードになるのは「同感」(シンパシー)。これを巡り微に入り細を穿つ議論を展開している。

簡潔にいえば、人は世間(社会)のなかで生きている中でいろんなものに「同感」を持ち、それらを通して道徳もつくりあげられるという発想だ。生まれながらにして(アプリオリ)、人はその中に確かな道徳のベース(道徳律)などは持っておらず、すべて生きていく経験を通して(アポステリオリ)学んでいくことになる。それを可能とするために人は「同感」(シンパシー)する能力を備えているという。


「人間がどんなに利己的なものと想定されうるにしても、あきらかに彼の本性のなかには、いくつかの原理があって、それらは、彼に他の人びとの運不運に関心をもたせ、彼らの幸福を、それを見るという快楽のほかにはなにも、かれはそれからひきださないのに、かれにとって必要なものとするのである。この種類に属するのは、哀れみまたは同情であって、それはわれわれが他の人びとの悲惨を見たり、たいへんいきいきと心にえがかせられたりするときに、それにたいして感じる情動である」(岩波(上)p23)


スミスに言われなくても、人は生きていく中でいろんなものにシンパシーを持つことはわかる。だが、シンパシーは状況によって、右にも左にも容易に振れてしまう。たとえば卑俗な例だが、「不良映画」や「ヤクザ映画」などは一定の需要があり、見るものはそれを見て何かしらのシンパシーを持つから娯楽作品として成り立つ。だが、実際の実生活で隣人が不良かヤクザならば、シンパシーを持つことはまずない。では、このシンパシーなるものは一体なんなのだろう・・

このような論理上の整理を「道徳感情論」はこれでもかというくらいに突き詰めて展開する。ちなみにこの本、スミスは生涯を通じて加筆修正を続けて第六版まである。晩年になりスミスは世間自体に対する捉え方が変化していくが、それでも自己規制(セルフコマンド)という考えを示し、自らを律することの大切さを述べ、やはり世間を通じて学んでいくことを一義とし、それを極論してこう言うのだ。


「戦争は、この種の度量を獲得するためにも、実行するためにも、偉大な学校である」(岩波(下)156p)


つまりは、命の危険を前にして恐怖をコントールすることが自己規制の根源であり、世間でおきる戦争はそれを学ぶところになるということだ。(もっとも、上品な生き方をしたスミス個人がそれに耐えられたかどうかは別の話だ。)人は自らの中に「確固たるもの」など何もなく、普遍的な道徳基準なども有していない、すべて世間での経験を通じて学ぶというのがスミスの結論。だが、正直なところ、私はこの考えにまったくシンパシーを持てないのだ。

それは極論すれば人の根源に何があるか考え、それをどのくらい信じるかの違いなのかもしれないが。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

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