論語読みの論語知らず【第23回】「吾 日に吾が身を三省す」

少し前にとある銀行を訪れ、そこの社長と懇談の折のことだった。応接室に掛けられている掛け軸にふと目をやると「日本資本主義の父」ともいわれる渋沢栄一の直筆で「信為萬事本」(信は万事の本を為す)とあった。山岡鉄舟も好んで用いたともいわれるこの言葉は、いまでは広く社是などで使われているが、もとは「新唐書」が出典ともいわれる。話はそこから古典や論語などでひとしきり盛り上がり、改めて「信」というものを考える良き日となった。なお、「論語」に「信」が出てくる一文としてはこのようなものがある。


「曾子曰く、吾、日に吾が身を三省す。人の為に謀りて忠ならざるか、朋友と交わりて信ならざるか、習わざるを伝えしか、と」(学而篇1-4)

 

【現代語訳】

曾先生の教え。私は毎日(主題を変えては)重ねて反省する。(たとえば誠意の問題についてのときは、)他者のために相談にのりながら、いい加減にして置くようなことはなかったかどうかとか、友人とのつきあいで、ことばと行いとが違っていなかったかどうかとか、(学習内容でたとえるならば、薬の調合において)まだ十分に身についていないのに(調合して)他者に与えてしまったかどうかとか、というふうにである(加地伸行訳)


「朋友と交わりて」の「信」を言行一致として訳しているが、これに「正直」であることも含めてよいだろう。人はなんのための信を大切にし、正直でなければいけないか、大元の理由や動機を問いただすとどうなるだろうか。これまでもたびたび言及しているマイケル・サンデル著の「これからの正義の話をしよう・今を生き延びるための哲学」ではこうした問題を扱う。

「正直は最善の策、そして最ももうかる策でもあります」

(ニューヨーク州商事改善協会の会員募集キャンペーンの広告文)を引き合い出しながら、正直である動機を考察している。これを「正直であるために正直な行動をとること」、「利益のために正直な行動をとること」の二つにわけるとすれば、このキャッチコピーは後者にあたり、前者の考えとは道徳的には重大な違いあるとする。もっとも、動機に違いがあっても、それが現実社会におよぼす効果自体は表向き同じにみえるかもしれない。


論語の一文に戻りたい。このなかの「信」(正直)の理由や動機は如何に扱うべきだろうか。孔子とその弟子たちが生きたずっと後の時代になるが明代の儒学者・王陽明の「伝習録」の一文を引っ張り出すことで一応の答えとしたい。


・・友に交わり、民を治るに、友の上、民の上に去きて箇の信と仁との理を求むるを成さず。すべてただこの心に在るのみ。心は即ち理なり・・」(上巻・三条より)


意味するところは、すなわち、「信」は友という存在が媒介して、その関係性のなかで見出すのではなく、あくまでも自らの心が主体となり「信」を発動するべきものだということなのだろう。もっとも、「信」を紡いだ結果としてなにかしらの利益・役得が生まれたとしても論語や儒学の世界ではそれを否定はしない。もしかしたら「信」は万事の本なのかもしれない。ただ、その「信」の動機がなにかを教育正面から問うことが少なくなっているように思う。そのようなことしても表向き何も変わらないならどっちでもいいじゃないかというのが理由なら少し寂しい気もする。

 

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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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