論語読みの論語知らず【第55回】「君子は上達し、小人は下達す」

・「元・・」「前・・」なる肩書

国や社会が大きな災いに直面したとき、現代の特徴の一つなのだろうが、メディアに多くの人が登場して事態を評論し意見を開陳する。そして番組構成上、長時間にわたって何度も同じようなものが繰り返される。それ自体をダメとは言わない。ただ、何かしらの専門家と称する人、学者(大学の先生など)と呼ばれる人、そして評論やコメントなどを一つの生業とする人たちの発言等に対して、それを視聴する側も疲弊するがそれでも理性(常識)を担保しつつ篩にかけていかねばならない。


特に「元」や「前」をそのタイトル(肩書)につけて、それを社会的信用の一つとして出演している専門家は、その分野について当然知見があるだろう。一方、現場で起きている最新情報にタイムリーにアクセスする権限も能力もないだろうし、あらゆる情報が集約され分析されたインテリジェンスなどをすべて知ることはない。「部内関係者」にコネがありそこから聞いたものだと称しても、それは情報の断片に過ぎないこともある。それらの断片と自分の知見をつなぎ合わせての見解であることを割り引いておく必要はある。


メディアに出る専門家の発言は、それまで専門的知見をつらつらと開陳しながら、二つに一つを選ぶような政策的判断について意見を求められると突然、「個人的には・・」と留保しながら回答することがある(よく聞いてないとだいたい聞き逃してしまうが・・)。多分この「個人的には・・・」とは、はっきりいえば、「私の専門や能力をこえており、自信はないですが・・」と同じ意味だろうし、その時点で立場を放棄しているのであまり意味のある発言ではないだろう。だが、そうしたメディアに出る専門家とは異なり、実際の最前線で事態収拾にあたる専門家、それを指揮する上の人たち、さらにずっと上の責任と決断から逃れることのできない立場の人たち、階段を上るほどに「個人的には・・」といった留保は意味をなさなくなる。


マイケル・サンデルの著作「これからの正義の話をしよう」で有名になった感のある「トロッコ問題」。線路を走っていたトロッコのブレーキが壊れて制御不能となり暴走、そのレールの前方には5人の作業員がいる(この作業員はこの暴走するトロッコに気づけない)。よくみると、レールの途中にひとつ待避線がありそちらの先には一人の作業員がいる(この作業員もまたトロッコには気づけない)。さて、このまま流れに任せ5人をひき殺すか、待避線側に舵をきり1人の犠牲で済ますかで選択を迫り、倫理的態度を問う思考実験だ。議論としてはいろいろなアプローチがあるし、頭を鍛える意味ではとても有意義なものだ。だが、これは「2者択一」しかないと単純に設定された上での知的遊戯であることを忘れてしまってはいけないし、現実のあらゆる諸問題ではギリギリまで他の選択肢がないかを模索するのもまた倫理的態度といえるだろう。


・プロイセンのビスマルク

プロイセンのビスマルク(1815~98)といえば、歴史の教科書で紹介される断片情報で「鉄血宰相」のレッテルとタイトルで想起されることが多いだろう。この呼び名は、時は1862年9月30日、プロイセン首相(ドイツ帝国以前)として政権の座につき、意気込みをつよく持ちながら臨んだ下院予算委員会で行った演説、「・・・現下の大問題が決せられるのは、演説や多数決によってではなく・・・鉄と血によってなのであります・・」から生まれ出ている。(あまりに長いので全文引用はしないが、なんでもかんでも鉄と血によって解決といったわけではなく、プロイセンが抱える現下の大問題といっただけ)。なお、意気揚々と臨んだこの演説は議会や世論を騒がせてしまいビスマルクはスタートで躓いた。


このビスマルクはいまだに評価が定まらない人物といってよいのかもしれない。事実さまざまな表現でビスマルク自身は形容されている。「鉄血宰相」以外にも、「誠実なる仲買人」「帝国創建者」「国民的英雄」「英霊」「悪霊」「デーモン」「現実政治家」「上からの革命家」「魔法使いの弟子」「生粋のプロイセン人」「至高なる自我の持主」「カリスマ的指導者」・・


さて、ビスマルクがプロイセン首相、ドイツ帝国宰相など、27年間にわたってその地位にあったが、その間、国家の大事を決断していく過程や結果をみていくと思い通りに運んだことばかりではない。むしろ、悩み苦しみながらギリギリの決断をしていったことが常だったように思う。一つだけ例をあげたい。プロイセンとオーストリアが互いに覇権をめぐっての積年の対立にケリをつける格好となった1866年の普墺戦争。いうまでもなく戦争は国家の一大事であり、いわば、緊急事態だ。ビスマルクは首相としてこの戦争を決断して実行し、そして勝利こそおさめているが、そこに至る直前まで対立路線と協調路線の間を蛇行運転でくねりを繰り返しながら開戦に至っている。


プロイセンの参謀総長だったモルトケは早期開戦を主張し、同時にその作戦にも自信があったが、ビスマルクはフランスのナポレオン三世や国内世論の動向や、戦争をせずともプロイセンとオーストリアの間で互いの勢力圏について妥協が成立する余地を求め続けた。ある歴史家はこうした態度を「オルタナティブ・テーゼ」であるとして、ビスマルクの政治は常に複数のオプションを確保するものであったとしている。なお、参謀総長のモルトケは開戦タイミングが遅れていくことで、その間なども作戦案の修正を何度も迫られたが、それでも作戦戦闘では大勝利をおさめることができた。ただ、戦争の終わらせ方として、オーストリアの首都であるウィーンにまで進軍するかしないかで、モルトケとビスマルクは対立し、ビスマルクは戦争後の協調を考えてそれをなんとかギリギリで取りやめさせている。


国や社会にとって事態が切迫してきて、そのテンションがあがってくるとそれぞれの立場で決断が迫られる。ただ、それが上に行けば行くほどに、色々なことを天秤にかけて決断を求められるし、その重み故に安易な決断はできないものなのだろう。即断即決が常にイコールで強いリーダーシップを意味するものでもないとは思っている。さて、論語にこんな言葉がある。


「子曰く、君子は上達し、小人は下達す」(憲問篇14-23)


【現代語訳】 

老先生の教え。教養人は根本や全体(上)が分かる。知識人は末端や部分(下)について知っている(加地伸行訳)


もう一つはややストレートな別の訳


その賢さ故に、賢者はますます賢くなる。が、その愚かさ故に愚者はいよいよ愚かになる(五十沢二郎訳)


宰相としてのビスマルクは最後には選挙に敗れて支持基盤を失って政権にピリオドを打った。すでに国内から不満があがり、そして飽きられていたのも事実だろう。

だが、面白いは、そのビスマルクが政界を引退しベルリンを去る日には、駅には政府首脳クラス、各国外交官、そして、大勢のドイツ国民が駅に集まり、「ドイツの歌」「ラインの守り」などが自然発生的に歌い出されて、その渦中のなかをビスマルクは去っていたとのことだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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