温故知新~今も昔も変わりなく~【第41回】 ヴォルテール『寛容論』(古典新訳文庫,2016年)

しばらくの間は社会全体で強いストレスを共有して向かい合わなくてはならない。歴史をみればそんな時代は多々ある。今もまたその渦中にあるだろう。これまでの日常生活は制限され、それぞれが謳歌していた自由もまた抑制を余儀なくされる。大人も子供もそれぞれに行動を変えていくことが求められる。現在進行形の政策や対策を巡る報道はタイムリーな反面、それを受け取る側にとってはときに情報過多、意見百出となり、その荒波の前に冷静さを失い困惑の渦へと引き込まれがちだ。それでももちろん情報統制をしろとか、意見封止を講じるべきなどとはいわない。たとえば、私の意見はこんな感じだ。


日本の人に対して思いつく「憲法」を複数あげてくださいと問えば、おそらく、「日本国憲法、明治憲法、そして、聖徳太子の十七条憲法」などあたりが列挙されるだろう。それぞれに憲法という単語がついているのだからこれは回答の一つだと思う。ただ、法学者や知識人によっては同列で論じるのはとんでもないという人もいる。


外国の影響を強くうけた現行憲法の背景には国家権力とは暴走するものだから、しっかりと法によって縛っておかねばならないとの発想がある。中学高校の教科書に出てきたトマス・ホッブスの著書「リヴァイアサン」(リヴァイアサンは、本来、旧約聖書「ヨブ記」出てくる怪物で、そこでは「・・口から火炎が噴き出し 火の粉が飛び散る。・・首には猛威が宿り 顔には威嚇がみなぎっている。・・彼が立ち上がれば神々もおののき 取り乱して、逃げ惑う。剣も槍も、矢も投げ槍も彼を突きさすことはできない・・」とある) ホッブスは国家なるものはこのリヴァイアサンであると論じ、それが強権を発動しえるものであるとしたが・・おそらく日本人が深いところで感じる国家観はこれと異なると思うのだ。


十七条憲法は「・・和を以って貴しと為し・・」に代表される道徳としての面がつよく、もともとは朝廷の役人たちへの訓戒である。道徳と法律の概念の違いなど区別が明確ではない未熟なもので国法にあらずとしてみるむきもあった。だが、この「和を以って貴しと為し・・」などのエッセンスが歴史の歩みのなかでひろく人口に膾炙してきているとも思う。そして、現代でも平時の日常生活のなかでわれわれは道徳と法律をそんなに明確に意識の上で区別をして生きているわけでもない(比較的という意味で)。もちろん、政府や行政が法律に基づいて行われることは当然だが、国が危急のときには国の歩みのなかで培ってきたその「緩さ」に期待する部分があってもよい。それを仮に「和」の共同体の原理と名付けるならば、つよくそれを発動してもらい、それぞれが自発的積極的に努める。それが一重に国力を引き出すことに帰結するように思うのだ。要は、国家が強権を発動して(仮に出来るとして)ロックダウンなるものを行使するよりも、より効果的なものを引き出すことに期待するのもこの国の叡智の在り方だとは思う。


もちろんこれに対しての反対意見があるのは当然だしまったくもってかまわない。ただ、強いストレスにさらされていると、平時の余裕も失い、自分と異なるものに対して激情に至り、青筋立てながら反論する人たちが増えてくる。強いストレス下で寛容ではいられなくなってくるととたんに不寛容が首をもたげてくる。


・ヴォルテールの「寛容論」

「たしかに、めったに起きないけれども、しかし、じっさいに起こる。陰気な迷信がこういう事件を生み出すのである。知性が虚弱なひとびとは、陰気な迷信に動かされ、そして考え方が自分たちと異なる人間を犯罪者にしたててしまう」(最終章より)


啓蒙主義の哲学者であったヴォルテール(1694~1778)は「寛容論」なる著作を遺した。この作品は、カトリックとプロテスタントの差異にたいしてまだ不寛容な時代に「カラス事件」なるものがおきた。親が子をその改宗をめぐって諍い殺したと疑義をかけられ逮捕、それが周囲を狂信とともに巻き込み、死刑判決が下され執行された冤罪事件だ。ヴォルテールはこの事件を知り、後にもともと縁もゆかりもない人物の名誉を回復するべく運動をおこす。この作品は事件を機に差異や対立に寛容であることの大切さを説いたもので、上の引用は作品の巻末に書かれているものだ。


「寛容論」自体は、カトリックとプロテスタントの間におきた不幸な事件に端を発して、主に宗教上の見解の相違からおきることへの寛容を説く。ヴォルテールはいかに教典の解釈の違いからおきる不幸な対立と残酷な出来事、その不寛容さ事例をこれでもかというくらいに列挙したうえで述べる。


「・・不寛容を権利とするのは不条理であり、野蛮である。それは猛獣、虎の権利である。いや、もっと恐ろしい。なぜなら、虎が獲物の体を引き裂くのは、それを食べて生きるためだが、われわれ人間はほんのわずかな文章のために、たがいに相手を抹殺してきたのである」(第六章より)


これは自然災害やテロなど人々が日常生活を奪われ強いストレスを感じたときにおきる諍いや混乱時などにも置き換えて読むことができると思うのだ。なにか一つを絶対とすること、特に強いストレス下においてはそう思い込むことが救いの如く感じるときもあるだろうが、それはひとつ間違えば狂信になる。ヴォルテールはこんなふうに表現する。


「・・その部屋には、尖った角と鋭い爪をもつ悪魔、火炎の渦、十字架と短剣が壁に描かれ、絵の上部にイエスの御名が書かれている。すでに心をうばわれた人々にとって、また自分たちの指導者にたきつけられれば、すぐさましたがうような貧弱な想像力の持ち主たちにとって、その部屋の絵は何とも迫力にみちたものではなかろうか・・」(第二章より)


ヴォルテールは人間の理性に信頼をおいた人だ。各人が理性を行使して激情に駆られそうな時ほど、寛容さをもって向き合うことを説いた。それはとてもとてもとても難しいことだ。だが、いまのような最も恐れるべきは恐怖である時代、どこか心がけておくことが必要だと思う。


***


筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

~ 誠実に対話を行い 真剣に戦略を考え 目的の達成へ繋ぐ ~ We are committed to … Frame the scheme by a "back and forth" dialogue Invite participants in the strategic timing Advance the objective for your further success

0コメント

  • 1000 / 1000