論語読みの論語知らず【第56回】「民の義を努め、鬼神を敬して之を」

できる限り自宅で仕事をするべく努めている。同じ環境でもそれなりに快適にするために工夫している。たとえば少しばかり思考のベクトルを変えてみる。徒然なるままにというわけではないが、心にうかびゆくよしなごとから思考をわずかに拡げてみる。キッチンで下手な料理をしているとき、ふと子供の頃にみた「まんが日本昔ばなし」のワンシーンを何故か思い出した。心の深くにどこか刺さっていたのだろうが、そうしたものはたいがいが怖い話だったりする。


山に住む一本足の「お姫様」と山に入り込んだ若者との話だった。ネット環境は問題ないからキーワードで検索してみると「山姫さまと兄弟」とのタイトルだった。権利関係は承知しないがYouTubeでもあがっていたので、30年以上の月日を経てついみてしまった。少しだけさわりを書くと、昔、昔ある里に、杉作と小江(こえ)という兄と妹が住んでいた。その里は雷電山のふもとにあり、秋になるとその山は真っ赤な紅葉に包まれて、村人は雷電山に住まう山姫さまが赤い晴れ着を織り、そして舞を披露していると考えていた。杉作は日に日に敬慕と好奇心が募り、妹の小江の心配もよそに山に入っていく。ただ、山姫さまのところにいくにはふたつの呪い(まじない)が伝わっていた。ひとつは、山姫は一本足だといわれ、山に入るものは一本足にならなくてはならないというものだった。杉作は知恵を働かせて片足跳びで山へ入っていた。そしてもうひとつは、山姫の歳の数だけ山の栗をあつめてお供えするというものだった。ふたつの呪いをこなした杉作の前には赤い晴れ着に身を包んだ美しい山姫が姿をあらわして「一本足の若者・・長い間待ってましたよ・・」と優しく語り掛け、杉作と山姫は一本足で舞に興ずるが・・・(続きに興味のある方は動画をご覧頂きたい)


さてここから思考を転じた。一本足からの連想でこうした伝奇を思い返してみたのだ。ふと浮かんだのは、山梨県は笛吹市にある山梨岡神社のことだった。だいぶまえの仕事の折に偶然みつけたので参拝したが、そこは、小さな社で宮司さんも常駐してない静かな環境だった。


ただ、由来はなかなかのお社で、崇神天皇の時代に疫病が流行り、それを鎮めるべく勅令によって創建されたことに始まるという。山をご神体とし、いまでもご祭神として「大山祇神」(おおやまつのかみ)「高龗神」(たかおかみのかみ)「別雷神」(わけいかずちのかみ)の三柱をお祀りしている。それぞれ「古事記」「日本書紀」や「山城国風土記」などに由来する神様だ。


だが、この山梨岡神社はとても変わった「夔(き)の神」なる一本足の神様の神像が祀られているのだ。この「夔(き)の神」の出自は異国であって日本の神様ではない。中国の古典的な地理書である「山海経」(せんがいきょう)にその出典がある。なお、「山海経」は現代の感覚からすればかなりとんがった伝奇要素がつよく正確な地理書とは呼べる代物ではない。(儒教が重んじた「書経」はそうした伝奇要素を可能なかぎり薄めた形でスタートさせた)。無論、だからといって読む価値がないとは思わない。


さて、古くはこの「夔の神」を巡って儒学者の荻生徂徠(甲府藩主だった柳沢吉保の家臣でもあった)が言及しているが、結局のところ何故祀られたのかは判然としていない。山が多く山岳信仰がつよかった地域的特性が自然と山の神への敬慕に連なり、そのなかにいつしか一本足の「夔の神」も紛れ込んでいたとの見方が通説のようだ。冒頭の「まんが日本昔ばなし」の「山姫さまと兄弟」とこの「夔の神」の関連性はよく知らない。いまは調べたくても自室の書斎では資料が限られているし、それを調べに外に出るのは不要不急の外出となる。ただ、いつか平時にもどれば、はっきりいえばこの「なんの役にも立たない」ことを直接調べにいくこともできる。知的好奇心と古きものへのきちんとした敬意を抱きながら、そんな日が到来することを楽しみにいまは待つのも悪くはないのだ。論語にこんな言葉がある。


「燓遅(はんち) 知を問う。子曰く、民の義を努め、鬼神を敬して之を遠ざくれば、知と謂う可し、と。仁を問う。曰く、仁とは、難きを先にし獲るを後にす。仁と謂う可し、と」(蕹也篇6-22)


【現代語訳】

(弟子の)燓知(はんち)が、知者(賢人)とは何ですかと質問した。老先生はこうお答えになった。「民としてあるべき規範(義)を身につけるように努力し、神霊(鬼神)を尊び俗化しない。そうであれば知者と言える」と。すると続いて、仁者とは何ですかと質問した。老先生はおっしゃった。「仁者は、過程(困難への取り組み)を第一とし、結果は第二とする。(そうであるのを)仁者と言うことができる」と(加地伸行訳)


私の友人の行政官、自衛官、医療従事者たちはいまや最前線にいる。未知の困難との戦いのなか、先行きも結果もなかなか見えないなかで、彼ら彼女らの獅子奮迅の働きには深く頭を垂れるだけだ。目下のところどちらにも当てはまらない私は、経済活動の一端を課せられたルールのなかで担うだけだ。ただ、いつもとは少し違った知的楽しみをスパイスに加えて味付けを変えて、精神のバランスをとることも知恵のひとつかもしれない。四六時中ニュースばかりをみずに、敢えて「役にも立たないこと」をときどき考えて楽しむのもまた長期戦への備えのような気がするのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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