論語読みの論語知らず 【第60回】「其の身正しければ、令せずとも行なわる」
「新宿鮫」というシリーズ小説がある。作家大沢在昌さんの代表作であり30年続くシリーズで第11巻まで刊行されている。主人公は新宿警察署の鮫島警部。警察庁にキャリア(上級職)で入庁するも内部の暗闘に巻き込まれて新宿署に「島流し」となり、以降ずっと一匹狼で捜査にあたり活躍する。鮫島が孤独と葛藤を抱えつつ犯罪者たちと向き合うハードボイルド小説だ。第1巻を高校生のとき読んで以来、新刊が出るたびに読み続けてきた。ハードボイルドシリーズでこれほど長い間読み続けてきたのは大沢作品くらいで、最新作の第11巻「新宿鮫 暗約領域」も先日読み終えた。
シリーズ開始時30代半ばくらいだった鮫島は、30年の年月をリアルに考えればとっくに定年退職しているはずだが、最新作のなかでもまだ40代前半くらいのようだ。もちろんファンとしてはこの月日の歩みは嬉しい限りである。なお、私自身の年齢が鮫島と同い年くらいになった。シリーズ初期の鮫島と比べて本人のキャラクターが深みや渋さを増し、そして、確実に大切にしている人を失っていくが、鮫島は苦しみながらも悪と向き合っている。「新宿鮫」は過去に映画・ドラマ化されているが、私のなかでは‘93年の映画「眠らない街~新宿鮫~」(真田広之主演)が活字から映像にしたイメージに近い。作品を読むたびに真田広之氏が演ずる鮫島が脳内で活劇を繰り返す。
鮫島は上層部から睨まれ、そして、事件捜査を巡って圧力をたびたび受けるが屈しない。その上層部が悪に染まり腐敗を極めているのかといえばそういうわけではない。秩序を維持するために悪とどう向き合うかのアプローチの違い、あるいは、マクロでみるかミクロでみるかの違いなのかもしれない。巨悪をコントロールするために小悪を泳がすことを受け入れる、ときに巨悪との取引も考える上層部に対して、小悪から巨悪に至る隠れた危険な道筋を孤独に捜査して逮捕壊滅にかたむく鮫島。この両者は常に対立する格好となりここにドラマが生まれるのだ。
ただ、どちらも警察が法と秩序を守り、犯罪を抑止するために存在する建前は信じている。いわゆる私利私欲にまみれた汚職警官がそれほど出てくることのない「世界」ともいえる。さて、現実の警察はどうだろう。最近、アメリカでは一警察官が過剰に力を行使した逮捕事案で国の上から下まで大混乱をきたしている。日本の周辺諸国はどうだろうか。私自身の主観と経験からしかものを言えないが、国によっては正直なところ法を順守する気もなく、積極的に利権をあさり、市民のための秩序を維持する気持ちなどない警察組織も多くある。 捜査に「御礼」を要求されることもあるし、そうしたところでは警察のことを「手帳を持ったヤクザ」と市民が陰で揶揄している。だいぶ前に某国に駐在していた頃に仲良くなった人に聞いてみた。「お国の警察はどのくらいがいわゆる悪い警官ですか?」。すると「まあ、8~9割」との答えをもらい絶句したのを覚えている。
さて、日本はどうだろう。これまた主観と経験の産物だが「悪い警官」は1割未満だと思うのだ。いまはもうそんなことはないが、私は若いころ警察には図らずもそれなりに協力したように思う。たとえば、新宿駅で目の前に逃亡してきた窃盗犯をホームで取り押さえての引き渡し事案。原宿駅で傘の先端で女性の顔を突き刺そうと逆上した男を取り押さえての引き渡し事案。恵比寿駅で元暴力団を名乗る男が目前でボコボコと男性を殴り流血させていたので仕方なく制圧しての引き渡し事案などなど・・後で臨場してきた警察官はみな礼儀も正しく良い警官たちだった。諸外国のそれと比べて日本の警官が居丈高あることは少ないし、警察自身が自分たちを特権階級とは思っていない。そして市民と警察の心理的かつ社会的な距離もそれほど離れてはいないと思う(スピード違反や駐禁切符を切られた場合は多分この限りではなく、違反者は多かれ少なかれもっと巨悪を取り締まれ!などと毒づいたりするだろうが・・・)。
最近知ったのだが、警視庁がドラマ仕立てのPR動画を1000人近い現役の警察官を動員してつくっていた。YouTubeで見ることができるもので登場する警官らの演技はともかくとしてとてもカッコよく描かれている。いや大いに結構だし、これをみて警察官を志そうと思う人たちが出てくるのも健全な社会であると思うのだ。志願して合格入庁して警察学校を経て警官になる。そして、危険と隣り合わせの仕事に就き、市民の模範であることが常に要求され、多かれ少なかれ自らを律する生活を貫くことはなかなか大変だろう。
ところで論語に次のような言葉がある。
「子曰く、其の身正しければ、令せずとも行なわる。其の身正しからざれば、令すと雖も、従われず」(子路篇13-6)
【現代語訳】
老先生の教え。上に立つ者は、己のありかたが正しければ、命令しなくとも、人々は方針に従う。そのありかたが正しくなければ、命令したとて方針に従わない(加地伸行訳)
日本の警察官の全てが道徳的存在などとは思っていないが、そうしたことをどこか期待している社会風土は悪くない。さて、大沢作品の話に戻る。「新宿鮫」の鮫島はカッコいい。私が小説を書くとして「新宿鮫」のようなカッコいい刑事を描く自信はない。だから、警察官でもない、もちろん犯罪者でもないが民間に生きながらそれらと向き合わざる得ない男を主人公にしたハードボイルド作品を書き上げたい。
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筆者:西田陽一
1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。
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