温故知新~今も昔も変わりなく~【第46回】 遠藤周作『沈黙』(新潮文庫,1981年)

10代後半から20代前半にかけて遠藤周作の作品をよく読んだ。「狐狸庵」(こりあん)と自ら称しエッセイ集などは軽妙でバカバカしくもユーモアが富みときに抱腹絶倒させるが、小説となると雰囲気は一変して重いテーマを背負わせてくる。なかでも「沈黙」はその代表格かもしれない。新潮文庫版の裏表紙では次のように紹介されている。「島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制のあくまで厳しい日本に潜入したポルトガル司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる・・・。」


「沈黙」はこれまでに何度か読み返してきたお気に入りの作品だ。2016年にマーティン・スコセッシ監督によって映画化されているが残念ながらそちらまだ鑑賞できていない。「沈黙」は文字通り神の沈黙がテーマとなっている。ロドリゴ司祭(パードレ)とガルペ司祭(パードレ)の二人は日本に信仰の灯を消してはならないとリスクをおかして潜入したが、そのことで貧しき村々に隠れ忍んで信仰を続けてきた者たちが司祭を慕って動き出す。それが静かな波紋を呼び、徐々に拡がりお役人の耳に入り残酷で苛烈な弾圧がはじまる。かくまってくれた信徒たちが無残に処刑されるところに遭遇して、ロドリゴは何度も祈るが神は助けにこない。ロドリゴは神に向かっていう「あなたはなぜ黙っているのです。この時でさえ黙っているのですか」


ロドリゴに棄教(転ぶ)を迫るお役人たちのその術は次第に冷酷無比になっていく。小説の後半でこんなシーンがある。


「どうしたな。どうしたな。パードレ」

通辞(つうじ)だった。あの獲物を弄ぶ猫のような声で、

「恐ろしゅうなったな。さあさあ、もう強情を張らずともよいぞ。ただ転ぶと一言申せばすべてが楽になる。張りつめていた心がほれ、ゆるんで・・・楽に・・・楽に・・・楽になっていく」

「私はただ、あの鼾(いびき)を」と司祭は闇の中で答えた。

突然、通辞は驚いたように黙ったが、

「あれを鼾だと。あれをな。きかれたか沢野殿、パードレはあれを鼾と申しておる」

司祭はフェレイラが通辞のうしろに立っているとは知らなかった。

「沢野殿、教えてやるがいい」

ずっと昔、司祭が毎日耳にしたあのフェレイラの声が小さく、哀しくやっと聞こえた。

「あれは、鼾ではない。穴吊りにかけられた信徒たちの呻いている声だ」


・・・・


信徒の呻き声はその耳から容赦なく伝わってきた。よしてくれ。よしてくれ。主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙っていてはいけぬ。あなたが正であり、善きものであり、愛の存在であることを証明し、あなたが厳としていることを、この地上と人間たちに明示するためにも何かを言わねばいけない。


ときは1600年代前半の欧州周辺ではローマ教皇の権威もかつてほどのものはなくとも、それでも間違いなく大きな権威を有していたしキリスト教はそこでは強者であった。司祭たちはそこでは高潔な志と純粋な信仰を願えば保つことはできた(そうではなかった司祭たちもたくさんいたであろうが)。ところが、この司祭たちは命がけで日本に上陸してきた直後からそこでの現実を目の当たりにして鉄の如き強固と思われた信仰が何度も揺さぶられるのだ。貧しき村の貧しき人たちに囲まれて司祭は内心でつぶやく。


「基督(キリスト)は美しいものや善いもののために死んだのではない。美しいものや善いもののために死ぬことはやさしいのだが、みじめなものや腐敗したものたちのために死ぬのはむつかしいと私はその時はっきりわかりました」


みじめさ、貧しさ、賤しさ、弱さをこれでもかこれでもかと遠藤は描写する。遠藤はそうしたものを人物に仮託して書かせたら第一級だ。特にキチジローなる登場人物がその代表的な存在だ。自らも信徒と称するキチジローは何度も何度もロドリゴを裏切りながらもついてくる。許しを請い、自分の弱さを責め、弱いままに生んだ神をうらみ、泣きわめきながら悔悟するも、次の嵐がきたらまたすぐにロドリゴを裏切る。高潔な志を持ち純粋な殉教であればどこか覚悟していたロドリゴを面食らわせ、怒り、呆れ、侮り、怨み、いろいろな感情をロドリゴの内心に沸き立たせることになる。キチジローとロドリゴが何度も接点を持つうちにその関係性も次第に変わっていくがこのあたりがこの小説の真骨頂かもしれない。


さて、この「沈黙」のテーマであるが神は果たして沈黙していたのだろうか。実のところロドリゴをはじめ日本に潜入しようとした司祭たちは何度もまわりや上司から思い留まるように諭されたのだ。母国のポルトガルを旅発つにあたって上司たちは渡航の願いを何度も退けたが、その熱情に押されてついに首を縦にふった。そして、ポルトガルから中継地ゴア、マカオまでの船旅は苦難の繰り返しだった。船団は嵐に何度も遭遇し、船内では病気が充満し、食料も水もつきかける旅路だった。ようやくゴアにたどりついてみると、日本についての最新の情報がもたらされた。すでに三万五千人のキリストの信徒たちが一揆をおこし、島原を中心に徳川幕府との戦いで敗れ、一人残らず殺戮されたとのことだった。さらにマカオにたどり着いたとき先輩の神父から日本での布教はもはや絶望的で、そこではこれ以上宣教師をおくることを考えていないとして厳しくたしなめられたのだ。さらには、日本へ共に渡航しようとしていた司祭のうち一人がそれまでの旅路がたたって病没している。果たして神は沈黙していたのだろうか。こんな小話がある。私が人生のこれまでで一番好きなアメリカのドラマ「The West Wing」(ザ・ホワイトハウス)のなかで大統領と司教の間で交わされた会話のなかで使われていた小話だ。


ある街で川の側に住む男がいた。あるときこの男はラジオで嵐がきて川が氾濫して街を洪水で飲み込むときいた。そしてすべての住民に対してただちに避難指示が出された。ただ、その男は言った。「私は信仰深き者です。そして神様にお祈りします。神様は私を愛してくださいますし、きっと助けてくださいます」 そうしているうちにどんどん水位があがってきた。


すると今後はボートがやってきて警告した。「おい、そこのあなた、街は洪水で飲み込まれる。避難するからこのボートに乗り移りなさい」「ありがとう。でも私は信仰深き者です。そして神様にお祈りします。神様は私を愛してくださいますし、きっと助けてくださいます」さらに水位があがった。すると今度はヘリコプターがやってきて上空でホバリングしてマイクで叫んだ。「おい!そこの君、街はもう終わりだ。ただちにヘリで救助する!」 だが、男はまたいった「私は信仰深き者です。そして神様にお祈りします。神様は私を愛してくださいますし、きっと助けてくださいます」


だが、男は溺れ死んだ。天国で神の前にたち男は神に尋ねた。「私は信仰深きものです。あなたは私を愛して下さるとおもってました。それなのになぜこんなことになったのです」

神はお答えになった「私はお前のためにラジオで知らせ、ボートを送り、ヘリコプターまで手配した。それなのにお前は一体全体ここで何をしているのだ!」


くどいようだが「沈黙」で神は沈黙していたのだろうか。それから、「キリスト教の信徒」であることと、「キリストの信徒」であることの違いは何であろうかと本質的に深く深く考えさせられる作品なのだ。


***


筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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