論語読みの論語知らず【第61回】 「終わりを慎み遠きを追えば」

「カタン」(CATAN)なるボードゲームがある。無人島に開拓地をつくりそこからいかに早く街へと発展させていくかを競うゲームだが、そのために資源(小麦、羊、レンガ、鉱石、材木など)をいかに効率よく生産あるいは交易で獲得していくか戦略が必要とされる。なお、このゲームは互いに競争はあるのだが、戦争は発生しないことになっている。ゲームルールに「発展カード」なる選択肢が存在し「市場」「議会」「図書館」「大学」そして面白いのは「大聖堂」なども作り出すことができる。ドイツ生まれのこのゲームはおそらくキリスト教の大聖堂をモチーフにしている。現代を生きる我々はふだんほとんど意識することはないが、国が成り立つ礎にはどういった宗教観や祖先・祖霊観を有していたかの問題は大切だと思っている。論語に次のような言葉がある。


「曾子曰く、終わりを慎み遠きを追えば、民の徳 厚きに帰す」(学而篇1-9)


【現代語訳】 

曾先生の教え。人々が父母の喪においても、祖先の祭祀においても、まごころを尽くすのであれば、その道徳心はすぐれたものになる(加地伸行訳)


論語の世界、いわゆる儒家の世界観は古代中国の周王朝の成立期や初期にその理想形をみている。したがって、その前の王朝であった殷の終わりはどうしたって悪辣非道なものでなければならない。殷が善の善なるものであれば易姓革命を起こす理由もなくなってしまう。儒家が重視する「書経」(周書)などは殷の最後の王である紂(ちゅう)を次のようにあげつらい征討する理由を述べている。


「・・しかるに、今、商王受(紂)は、上天を敬わずに、下民に災いを降し、酒に酔いしれ、女色に狂って、勝手気ままに暴虐を行ない、人を罪するにはその一族までも連塁させ、官吏を任用するには気に入りの家柄のものだけを取り立てている。また、宮殿・高楼・大池を造営し、華美な衣服を整えて、汝ら万民の生活を害っている。その上に、忠良な臣下を焼き殺し、身ごもっている婦の腹をさくことまでしている」(秦誓上第二十七)


さらに、司馬遷の「史記」もこの路線を踏襲しつつ、紂王の末路は惨めで、一方で周の武王は善政をにおわせつつ次の記録を残す。


「・・・紂の軍はやぶれた。紂は逃げて鹿台にのぼり、宝玉の衣服をきて、火中に身を投じて死んだ。周の武王は紂の頭を斬って白旗にかけ、妲己(だっき:悪女として有名)を殺し、箕子(きし:紂を諫めた政治家)を幽囚からとき放し、土もりして比干の墓をつくり、・・・また、紂の子の武庚禄父を封じて殷の先祖の祭祀をつづけさせ、・・・殷の民は大いに悦んだ。かくて、周の武王は天子となったが・・・」(「史記」殷本紀第三)


今日ではこうした「書経」や「史記」の記録が史実そのものではなく脚色もかなりあるとされている。さて、殷の王朝がどのような祭祀をしていたかについて軽くふれておきたい。神々や祖霊(祖先)を祭るという発想は周の時代の専売特許ではなく、殷の時代にはすでに一定のカタチを有していたことが、その殷にまつわる遺跡の発掘からわかっている。


祭祀に対する考え方は殷の前期・中期・後期でかなり変容していく。殷の時代全般を通して動物の肩甲骨や亀甲などをつかい卜占がされた。熱によって表面にできたひび割れでその吉凶を判断した。ただ、それも中期以降は真摯に吉凶を占うよりは、王が行う卜占は必ず「吉」と結果があらかじめ決められた単純な儀礼の一つとなっていた。殷の時代はよく祭祀をしたこともわかっている。その祭祀の対象は神々と祖霊に対してであるが、これらへの考え方や感じ方が時代の流れとともに変化していく。


殷の時代、「帝」なる天の神を考えていたが、具体的な姿を想起していなかったとされる。「帝」の字を甲骨文字であらわすそれは(PCでは表記できない)、祭祀に燃やす薪の束と降霊した憑代などの意味から派生し、「帝」そのものの実体を指し示すわけではない。この天の神である「帝」は、その作用する力は自然現象と人事の両方に介入すると考えられた。前者はたとえば、雨を降らせる力、日照りを与える力などをさし、結果として農作の豊凶に影響した。後者はたとえば、戦争や事故にも介入する力を有して個人の生命を左右するとした。ただ、この「帝」は人間に対して一方的存在であり、王や人間が祭祀を重ねたところで天祐を与えてくれるとは限らない存在として畏れられたのだ。この「帝」の下のランクに自然神が考えられた。こちらは一方的な存在ではなく、祭祀を通して雨乞いなどをすることで、それを聞き入れて実現してくれるものとして考えられていた。


祖霊に対してはどのようなイメージだったのだろう。これも時代によって変わる。前期では、祖霊は場合によって「たたり」を与える怖い存在として考えられていた。事実、その時期の甲骨文で、ある災い(それがただの歯痛だったりもするが)が先代の王(祖霊)がたたりをもたらしている結果なのかを問うている。祖霊は子孫にたたりを与えうる存在として考えられ、たたりを抑えることを目的として祖霊への祭祀が始まったようだ。だが、この恐ろしい祖霊も時代の歩みとともに性格を変えていく。それは、祖霊は子孫を保護して助けを与えるもので親しみがもてる存在へと変容していった。殷全般を通して卜占や祭祀の意味合いが少しずつ変わっていったことは興味深い。ところで、「書経」「史記」で非道に描かれた殷の紂王は、考古学的事実としては厳格に祭祀を行っていた王として今日では知られている。だからといってそのカタチはともかく、紂王の内心がまごころにまでかなっていたかどうかまでは考古学からは判別はできない。


ところで、冒頭の「カタン」だが大人数人でやってみると意外と面白いのだ。ただ、ルールを勝手に変更して「大聖堂」が、つまりは宗教が王にたいしてどのような立ち位置にあるかなどを考えてプレイしてみると・・もはやボードゲームではなくなるが、そんなことで議論が盛り上がるのがまた面白いのだ。


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筆者:西田陽一

1976年、北海道生まれ。(株)陽雄代表取締役・戦略コンサルタント・作家。

株式会社 陽雄

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